Winny摘発で思うこと


Winnyの作者の逮捕でつくづく思うのは、著作権のあり方はどうあるべきか、ということじゃないだろうか。

コンピュータ関係で最近の一番の話題は、やっぱりファイル交換ソフトWinnyの作者が逮捕された事件だろうと思う。一応、僕もコンピュータ関係の人間なので注目はしてたし、ブログで何かコメントしたいと思っていた。だけど、どうもうまく表現できないのだ。逮捕がいいか悪いかとか、Winnyみたいなソフトは是か非かとか、そういうことがこの事件の本質とは感じられないんだ。なんか、居心地の悪い感覚。その原因が、なんとなくわかってきた。それは、このソフトが犯した「著作権」というものに対する、居心地の悪さなんだろうと思う。

僕は、物書きだ。だから、当然だけど著作権の保護の利益を受けている。僕の書いたものの著作権が守られなければ僕は暮らしていけない。だから、「著作権の保護」というのは大切だ、という立場にある。——けれど、では「今の著作権保護のあり方が正しいのか」といわれると、どうも口ごもってしまう感がある。

今日、嫁がDVDをAmazonで検索していたのだけど、米国では出ているけれど日本では出ていないというものがずいぶんとあった。嫁は「英語でもいいから欲しい」というのだけど、単純にそうはいかないのがDVDのリージョンコードって問題だ。リージョンコードが異なるソフトはプレーヤーで再生できない。——これは、なぜだろう。「著作権保護」という言葉がやっぱり思い浮かぶ。けれど、ビデオではOKなのにDVDだけがいけないというのは奇妙だ。もちろん、DVDの方が後から登場したメディアだから規格が強化されているということはあるだろう。けれど、リージョンの分け方などを考えると、これはどう見ても「違法コピーの多いアジア製のソフトを欧米に輸出できなくするための方策」としか思えないんだな。

更には、著作権保護を考えていると、ディズニーのキャラクタの権利が、なぜ文学や音楽より長いのか?ということも頭に浮かぶ。小説や音楽は作者が亡くなって何年か(50年だっけ?)で自由になる。が、ディズニーのアニメやキャラクタは、遥か昔に作られたのに未だにフリーにならない。なぜなら、期限切れが近づくと、必ず米国の法律が改正され、期間が延長されるからだ。

著作権は守るべきである。けれど、著作権を守るべきための法律やシステムなどのすべてが、一部の大企業や大国の利益を守るためにのみ機能している感じがどうしても拭えないのだ。それが、居心地の悪さの原因なんだ。一人一人、個人個人の生み出したものの利益を守るために作られているように思えないのだ。

あるシステムを守るべきだと考えたとき、そのシステム自身が実は間違っていることに気づいたら、どうすべきだろう。著作権というシステムは守るべきだ、だがそのシステムは、現在、間違った形で作られている。そう思えてしまったら。悪法も法であると考えるべきか。それとも。

Winnyの作者は、ある種の確信犯であったように思う。著作権のあり方を考えるならば、現在の歪んだ著作権保護を破壊することからはじめなければいけない、ということか。彼の行為は、違法かも知れない。だが、その法は果たして守るべき正しいものなのか。難しいよ。今の僕には、どうすべきなのか見えない。当分の間、この居心地の悪い場所に居続けるしかないんだろうか。その答えが見つかるまでの間。

公開日: 水 - 5月 12, 2004 at 06:58 午後        


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