新撰組、終わる
ようやく、さまざまな物議をかもした問題の大河ドラマが終わった。が、かもした物議は、何かの実を結んだのだろうか。
週末は、親子揃って風邪三昧。嫁と娘が土曜日辺りからぐすぐすやっていたと思ったら、日曜にはパパまでハナが止まらなくなってしまった。まぁ、夜には娘はだいぶ持ち直して来た(この二歳児が我が家で一番風邪に強いような気がするのは気のせいか?)ので、嫁に二階へと持っていってもらい、日曜夜のパパのお楽しみ「新選組!」を見せていただいたのでした。なにしろ最終回。風邪だろうが何だろうが、見ないわけにはいかない。(録画してるんだからなおってから見ればいいのに)
で、だ。——なんで15分延長なんだよっ! それまでの毎週予約のままにしてたもんだから、最後の15分が切れてる・・。しかも、そこまで見て初めて気がつく・・。どうするよ。最後の15分のために、また再放送予約するのか?(・・しました、はい)
まあ、最後は尻切れとんぼだったけどさ。とりあえず「うーん、こういう終わり方なのか」という感じのものはわかった気がする。なんちゅうか、最後に近藤勇は「多摩の誇り!」「よくやった!」的な、立派に死にました、みたいな。将軍慶喜が逃げちまったもんだから、それまでの幕府への恨みつらみをぶつける相手がいなくなった。で、近藤にはそうした新政府側の鬱憤をすべて一人で背負って死んでもらうしかなかったのだ、的な。——大嘘であることを承知で楽しむのは僕も好きだけど、これはかなりこじつけましたねぇ。近藤勇は、そんな大層な人物ではないでしょ。それまでの旧幕府への恨みつらみを一人で背負えるような大人物ではないだろう。ま、そんなことは百も承知で、「そうとでもしないと収拾がつかない」と思ったのかも知れないけどさ。
一貫して「新政府=自分たちの利益のために国を乗っ取るにくったらしいやつら」という感じで描いていたのは、それまでの大河ドラマと違ってなかなか新鮮でありました。が、実際はどっちもどっちだったわけだし、少なくとも幕府側に将来への展望を持った人間がほとんどいなかったのは事実。あまりに一方的に「こっちは美しい、こっちは醜悪」という形で描き分けられると、どうもなんというか喉元が痒くなってくるというか、「そこまで装飾することないでしょ」という感じになってしまうのでした。
たぶん、新撰組という「古い権力にしがみついて先が見えないまま貴重な新時代の人材を殺しまくった連中」を美化するためには他にあんまり方法はなかったんだろうとは思う。だけど、ここまでやってしまってよかったんだろうか。——大河ドラマってのは、まぁ「古くさい」とか「つまらない」とかいろいろあるけど、少なくとも「大河ドラマでやってるんだから、そんなに嘘はないだろう」みたいなものがあった。三谷さんはそれを壊したかったのだろう。が、それは果たして壊れたか?——壊れてはいない。と僕には見える。やっぱり大河ドラマは大河ドラマなのだな。そして、あれこれ批判されつつも、三谷新撰組も「大河ドラマ」の一つとしてみんなが見てしまったんじゃないか。そして、彼が壊そうと思って作り出したさまざまな嘘は、そのまま「大河ドラマなんだから嘘じゃないだろう」と世間に広まってしまったような気がする。「大河ドラマ」というものが作り出している幻想というのは、思った以上に頑強だったんじゃないか。
「これはドラマなんだ」ということが通用しない世界というのもある。今回の「新選組!」は、そのことを強く感じざるを得なかった。小説とか、ドラマとか、映画とか、そういう「嘘」を前提としてものであるはずのものが、いつの間にか「小説になったぐらいなんだから真実だ」とか「映画になったんだから本当のことだろう」みたいになってしまうことってある。「新選組!」で広まってしまった虚構を、三谷さんはこれからどう打ち消していくつもりなのだろう・・などと思ったのでした。ともかく、新撰組をあんなカッコいいものと信じる人間がこれ以上増えてはたまらんぞ。
P.S.
どーでもいいけど、どうして「新選組!」は、「新撰組」にしなかったのだ。いちいち使い分けるのが大変じゃないか、ったく。
公開日: 月 - 12月
13, 2004 at 10:41 午後