自己表現する人間の面の皮の厚さについて
前の「感動させたい人々」の続きなんだけど。なんとなく違和感の根幹に思い当たった。
つまりは、「自己表現する」ということに対する感じ方の違いがあるんでないか。
どうも最近、「自己表現」する人間が増えている。ただ増えているならいいんだけど、そうした人間の多くが、それを誇りにしていたり自慢していたり、要するに「いいこと、すばらしいこと」として訴えかけていたりするんだな。——倉本おじさんの発言にも、そうしたにおいを強く感じる。そこが、たぶん問題の根幹なんだ。
自己表現する、自分でものを作って、その上それを人前に発表する。——それは、とっても「恥ずかしいこと」だとオレは思う。それは、先にいったけど、「ものを作る」ということが唯一「やりたくてやりたくて我慢できなくって作っちまった」という理由から生じたものであるから、という考え方とリンクしている。自分の欲求が高ずるあまり我慢できなくて作ってしまった。それは自分自身を赤裸々に表現してしまったもの。それを人前に晒す。それはやっぱり、ものすごく恥ずかしいことだ。オレにとっては。
こうしてホームページを作ったり、フリーウェアを作ったり、雑誌に署名入りで記事を書いたり、本を出版したり、コラムを執筆したり、オレの生活のかなりの部分は自己表現に結びついている。そして、それらを心のどこかで「ああ、こっ恥ずかしいな。でもしょうがない、どうしてもやりたくてやっちゃってるんだもの」と思いながらやってしまっている。——もし、それがいつの間にか「どうだ、オレの生み出したものは。すばらしいだろ、オレってすごいだろ、オレって天才だろ、オレの作った作品たちはオレの誇りなんだ、どうだどうだ」なんて思う人間になってしまっていることに気づいたら、オレは恥ずかしさのあまり死んでしまうかもしれない。
最近、オレが「本来、恥ずかしいこと」と思うことを、世間的には「すばらしいこと」と評価されてしまっていることが多くなった。例えば、「自己表現すること」もそうだ。あるいは「物事を誇るということ」とか。「これがオレの誇りなんです」なんてことをまるですばらしいことであるかのように人前でしゃべる人間が多くなった。あるいは「自分探し」とか。「本当の私を探してるんです」なんて真顔でいう人間がマジでいたりする。あるいは「こだわり」とか。「ボクってほら、××にはこだわり持ってるし」なんて臆面もなくいうやつ、いるでしょ。——何より不思議でならないのは、そういうのを「うんうん」と頷いて眺める多くの人がいるってことだ。
「恥ずかしい」という美しい感情が、多くの人から少しずつ消えていきつつあるような気がする。昔は、自分が何か作ったりしたものをほめられたりしたら、まずいったものだ。「いや、お恥ずかしい」と。「恥ずかしいけど我慢して何かをする」ってのと「そもそも恥ずかしいと感じない」のの間にはでっかい違いがある。自己表現する人は、そこをもう少し考えてくれないかとちょびっとだけ思うのだ。
・・いや、お恥ずかしいことを書いてしまいました(笑)。
公開日: 水 - 10月 29, 2003 at 02:53 午後