ないものはない家


実家にいってきた。そしていくつか詩集を物色して帰ってくる。
ほんとに、この家は便利な家だ。

実家の給湯器が壊れてしまったので、今日は室外機の交換修理の立ち会いにいってきた。そして、工事完了までの間、しばし本棚を物色する。——前から、嫁に村野四郎と草野心平の詩集があったら持ってきて、と頼まれていたのであった。で、あちこち家捜しするうちに発見。その昔に買った新潮文庫の詩集だ。他、数十冊の詩集を見つけ出し、適当にピックアップして持って帰ってきた。

たまに帰ってみてつくづくと思うのは、「うち(の実家)には、ないものはない」ってこと。いや、といっても文芸書の類いについては、だけどね。——考えてみれば、親子二代の本読みで、父・姉・僕と3人して買いまくった本が狭い家に詰め込まれているのである。最近のものはないけれど、およそ20年より前の文芸書であれば古典文学からミステリー、SFに至るまで「これは読まねば!」と思う本はすべてどこかにある。これはすごい。はっきりいって、近所の図書館より揃ってるぞ。

常に本を読み続けていたわけではない。大人になってからは、仕事が忙しければろくに読む暇だってないし、読みたいと思うものも減ってきた。けれど、いざ「あれが読みたい」と思ったとき、すぐに「確か実家にあったはずだ」と思い出せるってのは、たいしたことだ。子供の頃から、どこかでその本を見ている、それが記憶の片隅に残っているのだろう。

親が子供に残せるものっていうのは、多分、そういうものなんだろう。金とか家とかそういうのもあるけど、それはちょっとしたことで消え失せてしまうものだ。「本だってそうだろう」って? いや、本のことをいってるんじゃないよ。そういう少年期を過ごしたということ、をいってるんだ。——本でもいい、音楽でもいい、絵でもいい、どんなものであってもかまわないんだ。「そのもの」については、ピンからキリまで、一流から三流の下の下まで、とにかくあらゆるものが身の回りにある、そういうものに囲まれて育つということ。そういう環境で育った記憶というのは、多分、絶対に消え失せない。それは、例えば英才教育とか幼児教育とかそういうものでは培うことのできない何かを培ってくれるんじゃないだろうか。

ようやく、「自分の親は、あれはあれでたいしたものだったんだ」と思えるようになった。そのぐらいには自分も成長したんだろう。せめて、親と同じぐらいのものを自分の子供に残してやれればいいのだけど。

公開日: 火 - 2月 3, 2004 at 10:51 午後        


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