リンクの権利


勝手にリンクさせない権利ってのは、あるんだろうか。

しばらく前から、ちょっと野暮用であちこちのサイトのリンクを集めて回っている。僕は基本的にネットサーフをしないほうなんだけど、あれこれ回っているとなかなか面白いページが見つかってくる。——で、だ。こうして見つけたページへのリンクを行なうのに、ちょっと困った事態に遭遇しているのだ。それは、かなりなサイトが「管理者への連絡手段を用意してない」ということ。よく「管理者へのメールはこちらから」といったリンクやページを用意してあるのを見るけど、案外とそうしたサイトは少ないようだ。

多分、そうした人は「別に直接メールしないといけないことなんてないでしょ?」という感じでいるのだろう。例えば「掲示板があるからなんかあればそっちに書き込んで」という考えだったりね。が、「リンクの許可」を得ようと思ってサイトの中を見ても連絡先がない、というのは困った事態だ。困ってあれこれ考えているうちに、本末転倒な話だが「そもそも、リンクに許可なんているのだろうか」ということを考えるようになったのであった。

多くのサイト管理者は「リンクは自由にしてください、連絡もいりません」といった感じだったりして、そういうサイトを見るととても好感が持てる。が、中にはリンクについてあれこれ注文を付けているサイトもある。実をいえば僕のサイトもそうだったりする(笑)。僕は相互リンクを基本に考えているので、「リンクして欲しい人は連絡してください」というスタンスになっているのだ。が、もちろんこれは「僕のサイトのリンクコーナーに載せて欲しい人は」ということであって、「うちへのリンクは載せなくていいです、こっちから勝手にリンクさせてもらってます」というのはもちろんOK。どんどんバンバンやってください。

だが、そういうリンクを好まない人もいる。また、途中のページへのリンクを嫌い、「リンクは必ずトップページにお願いします」というところもけっこうある。これはこれで、「そのサイトの中のこの部分のこのページに直接いきたいんだ」という人にはけっこうイライラの種になったりする。例えば商業目的のサイトなどで、こうしたサイトへのリンクを無断で掲載したりすると後で苦情が来て問題になったりする。

むろん、Webサイトで公開しているさまざまなコンテンツやその作者には、さまざまな権利があり、保障されている。だから「これこれはしないでください」と主張するのが間違いとはいえない。リンクにしても同じだ。「勝手にリンクして欲しくない」ということを主張する権利は誰にもある。だがね。僕はそういうのを見るにつけ思うのだ。——「権利」を主張する人間というのは、なんだってこうも不快なのだろう、と。

例えば、人間の基本的人権に関わる権利とか、生命に関わる権利といったものであれば、それは大切だ。だが、「自分のサイトに勝手にリンクをさせない権利」・・なんとまぁ、ちっぽけな権利だろう。その権利を、まるで自分の一番大切なものが危険に晒されているかのように大仰に「権利の侵害だ!」と訴える人間が、はたして立派に見えるだろうか。

もちろん、それが悪いとはいわないよ。すべてにおいて首尾一貫して主張しているのであれば、「なるほど、これはその人にとって大切なんだろう」と思う。そうした大切なものを守るのであれば、それは誰もが納得するだろう。だが、多くの権利を叫ぶ人は、自分にとって都合の良い権利だけを叫び、それ以外の部分からは目を背けている。——例えば、「自分のサイトへのリンクに厳しい」人であっても、勝手にリンクされているのに全く文句をいわず、それどころか喜んで受け入れている無断作成のリンクがある。それは、検索サイトのリンクである。

Googleで検索をすると、自分のサイトやその中のページがずらっと出てきたりする。クリックすれば、そのページへとジャンプする。すなわち、これは「自分のサイトへのリンク」なのだ。しかも、無断、無許可の。勝手に検索ロボットがページを見つけてこちらに何の許可もなく登録してしまう。——だが、誰もそのことに文句をいう人はいない。ところが、Googleで自分のサイトのリンクが出てきても何も文句をいわないのに、例えば個人で「○○の検索サイト」なんていうのを作って勝手にリンクを張ったりすると、途端に「無断でリンクしないで下さい!」と文句をいってきたりする。

もし、Googleに対し「勝手にリンクをしないで下さい」と抗議し、あらゆる検索サイトからも自分のサイトの登録を削除し、「私のサイトへの勝手なリンクは禁ずる」と叫ぶのであれば、誰もが納得する。だが、そうした自分にとって有益なものには目をつぶり、そうでない部分だけを声高に「権利!」と叫んでも、そんな言葉は人の耳には届かない。

何かを主張するというのは、基本的にとても恥ずかしい行為なのだ。他人に自分の考えを押し付け理解するよう強要するというのは、とても迷惑な行為なのだ。だが、世の中にはそうした恥ずかしく迷惑な行為であるとわかってはいても、あえて声を上げなければならないことがある。そうしなければもっと重大な事態に至る、そういうときがある。そういうときに人は、自分に我慢し、人に我慢してもらいながら、声高に叫ぶのだ。「権利を主張する」とは、そういうことだ。

自分に我慢もせず、他人が我慢していることにも気づかず、あえて声を上げる必要もないようなちっぽけな権利を殊更に主張する人間で世は満ちている。——たった百数十のリンクを集めるのに、一体どれだけ不快な思いをしなければならないのだろう。僕らは、もう少し「増えすぎた権利の処分」というのを考えるべきなのかもしれない。なにより、目先の小さな権利にとらわれるあまり、もっと根源的な権利がじわりと浸食されていることに気づかないような事態にだけは、陥りたくないと思うのだ。

公開日: 金 - 1月 28, 2005 at 07:09 午後        


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