死刑容認の意見


死刑廃止に反対の元国会議員のサイトに行ってみた。

先に死刑の是非について書いたときにいくつかサイトを検索してみていたのだけど、その中で元国会議員のサイトが引っかかってきた。で、ちょっと気になっていたので、今日、暇を見ていってみた。——佐々木知子という人のホームページであります。元参議院議員、現在は弁護士とのこと。「弁護士で議員経験者」となると、人権派と呼ばれる人たちのイメージがあるけどこの人はちょっと毛色が変わっている。死刑廃止に反対なのだ。

ごく単純に、「死刑になりそうな犯罪の被疑者が弁護依頼をしてきたらどうするんだ?」という素朴な疑問がわいたのだけど、それはおいて。この人のページ、さすがに頭の回転が速い人らしく実にわかりやすく問題をまとめている。おそらく、多くの「死刑容認」派の人の意見がだいたいここに集約されているといってもいいだろう(・・と、思ってた。ら、実はとんでもないところだったんだけどね)。で、それを読みながら「なぜ死刑を容認するのか」という人間心理の勉強をしてみた(要するに茶々を入れてたわけね(笑))。なお、青字は引用ではなく、僕がてきとーにまとめたものなので、正確を期したい人は「佐々木知子のホームページ」 を。

凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ。刑罰の主目的としての「応報」であり、仏教では「因果応報」といわれる。人の命を奪えばその因果が自分に返ってくるのが宇宙の理だ。

なわけねーだろ(笑)。死刑容認で、いきなりこれかい。だいたい「因果応報」ってのはそーゆー意味じゃねーだろ。・・ま、いいや。続き続き。

死刑を廃止すれば被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない。

このへんが、まず一番に出てくるのだよね。「被害者感情」というやつが。多くの人が口にするのも、これだろうと思う。だけど、これはちょっと変だ。なぜって、死刑制度があっても、「人を殺した犯人のほとんどは死刑にはならない」からだ。——死刑になるのは、人を殺したりした中でも格段に凶悪な人間だけだ。例えば1人殺しただけでは死刑にはならない。3人4人と殺して、初めて死刑という選択が浮かび上がってくる。被害者感情というなら、果たして「うちの子一人しか殺されてないんだから死刑にしなくていいです」とか考えるだろうか。

日本では、基本的に「人を殺しても死刑にはならない」のである。「殺された側の被害者感情」ということをいうなら、この点をまず考えないといけない。「人を殺したなら、どんな理由であれ全員死刑」というなら、確かに被害者感情を考えて死刑が必要といえるだろうけど、そうではないのだよね。

ま、この被害者感情というのは意見としてわかる。——ところが、ここから先、この人の意見はぶっ飛んでくる。

復讐の念は人間の自然の情であり、古来敵討ち(私刑)は当然の権利とされてきた。日本でも明治初期に敵討ち禁止令が出されるまで敵討ちは遺族の権利だった。近代法は被害者から私刑の権利を取り上げ、国家専属とした以上、被害者の報復感情を満足させるべき義務を国家は負ったといえる。

・・だんだん、脳みそが腐りそうになってきます(笑)。「死刑容認」の理由に、「昔は私刑が当たり前だったのに、その権利を取り上げたんだから、国は被害者の報復感情を満足させる義務がある」なんてものが出てくるとは想像すらしておりませんでした、はい。まず、敵討ちと私刑(リンチ)は違うだろ、というところからして突っ込みどころ満載なんだけどね。

——日本において敵討ちが制度として認められていたのは、被害者の報復からではない。単純に「手が足りないから」だったのだ。殊に、江戸時代は藩ごとに行政が異なっており、他国に逃亡した犯人を一国の行政府が追いつめていくのは不可能だったんだよね。それに殺された側も、誰かが敵討ちに出て敵を取ってこないと「殺されてしまうなんてのは武士にあるまじき不面目、武道不覚悟」ということでお家とりつぶしになってしまうのだ。だから多くの場合、「イヤイヤ敵討ちに出された」という感じだったらしい。なにしろ日本中を探しまわって、敵をとってこないと帰れないシステムだったわけだから、やるほうだってたまらんのだよね。敵討ちなんていう言葉のイメージと実態とはかなりかけ離れたものだったのだ。

更に、多くの人は重大なことを忘れている。敵討ちは「武士」だけのものであったのだ。庶民に「敵討ち」なんてなかったのだ。親が殺されたりして「敵討ちだ」と願い出ても、庶民の場合はまず認められなかった。「昔は敵討ちがあった」なんていっても、結局、「武士」というごく一部の特権階級の中だけの話だったんだよね。——そもそも江戸時代には「武士は、武士以外の身分のものを殺してもかまわない(切り捨て御免)」というとんでもない制度があったわけで、そんな場合、庶民には「殺される=泣き寝入り」以外に選択肢はなかった。そういう時代だったのだ。それを無意識に「昔の日本には敵討ちの制度があった」なんて日本全体に広げてしまってはいないか。日本のほとんどの人間は、敵討ちなんて無縁だったことを忘れちゃいけないよ。

また「私刑(リンチ)」に関しては、昔も今も「リンチする権利」なんてものが存在した時代はないっす。「感情的に抑えられなくてそういうことが行なわれていた」のであって、その時代もリンチが「正当なこと、よいこと、正しいこと」であったわけではない。そういう「それぞれが感情や欲求に任せて勝手に犯人と思われる人間(ここが重要。「犯人」ではない)を殺す」というのはもうやめよう、ということで近代法が生まれたわけで、そこでなんで「国がリンチする権利を取り上げたんだから、取り上げられた人たちのことを考えて死刑を続けないと」と考えるのか。思考回路がまったくわからない。

欧州の思想的支柱はキリスト教であり、日本の属する仏教社会とは事情が異なる。キリスト教国ではない国で死刑を廃止した国は、イスラム国、仏教国はじめほとんどない。

・・・・・・。
そうなのか? 死刑廃止はキリスト教的考え方で、イスラムや仏教では死刑容認なのか? そんなん、初めて聞いたぞ。——確かに、死刑存置国は圧倒的にアジアに多いのは確かだ。だけど、それを宗教にすり替えてしまうのはどうなのか。それじゃ仏教の偉い人が死刑に反対してるのはどーゆーわけなのか。例えば、天台宗ではホームページにこう書いてあるぞ。

仏教は、生きとし生けるものを殺してはならない不殺生を説く。〈生命の尊厳〉と〈悉有仏性〉そして他者への〈寛容と慈悲〉を主張する仏教の教えに生きる仏教者として、死刑制度の廃止を望むのが当然である。

他のホームページでは、とある住職の講演としてこう書かれていたぞ。

死刑という殺人は国家の未成熟を暴露するもの、国家がその国民に対して保障した基本的人権をみずから破棄するもの。殺人は殺す側に痛みが伴ううちは、まだ人間が機能しているが、痛みがなく殺す側に立つなら、「人間」の放棄である。殺人に違いないのに戦争と死刑制度のふたつは痛みを伴わないあるいは痛みを麻痺させる。

——だそうだ(以上、深澤光有さんという札幌の住職さんの講演)。ほんとに「仏教社会だから死刑廃止は文化に合わない」のか?(だいたい、日本って仏教社会なのか?)

諸外国では犯人検挙の際の簡易死刑執行(summary execution)がなされている事実を見逃している。死刑は野蛮だから断固廃止すべきだと主張するいわゆる先進国でも、逮捕に抵抗する犯人の射殺は容易に行われていることを廃止推進派は看過している。

これも意味がわからない・・。その通り、だから「死刑廃止だけで満足せず、逮捕時の射殺をもなくしていかないと」というのならわかる。だけど、それがなんで「だから死刑を容認する」となるのだ? 「死刑を廃止した国だって、逮捕のときに殺したりしてるじゃないか。日本はそういうことはほとんどないんだ」だから死刑があってもいいんだ、というのか。万引きした中学生かあんたは。「あいつだって悪いことしてる、オレだけ悪いんじゃないぞ」って・・。そんな理屈が通用するわきゃないだろうが。

(更に追加。——これを書いた後、嫁にいわれて気づいたんだけど、まさか、「死刑を廃止した国では、『どうせ逮捕しても死刑にはならないんだから』とばかりに、凶悪犯は警察が逮捕する前に射殺してしまうんだ。だから死刑の方がマシなんだ」といいたいんじゃないだろうな・・。こういう理屈、聞いたことある?「男が女の家に押し入ってきて強姦した。もし、あくまで女が抵抗していたら男は女を殺していただろう。黙って強姦されたから殺されないで済んだのだ。だから強姦は悪くない」・・なわきゃねーだろ、と普通思うだろう。「これをやめればこんな悪いことが起こる」ということと「だからこれは悪くはない」ということは全く別だ。死刑を廃止するとこういう問題が起こる、ということと「死刑そのものの是非」は別の話だろう。死刑も悪い、逮捕前に射殺するのも悪い、どっちもなくそう、ってのがふつーの考え方じゃないのか?)

亀井会長(死刑廃止を推進する国会議員の会の会長である亀井静香議員)の話として「目撃証言一つとっても絶対間違いないものなどない。そういう見方で刑事手続き全体を見るべきだ」とあるが、もし本当に、目撃証言が信用できない、有罪かどうかの判断はできない、というのであればそもそも裁判などというものが一切できず、裁判制度そのものを否定することになってしまう。

なんで? なんでそうなるの? 「絶対に間違いないものなどない」ということが、どうして「何一つ信用できない」にすり替わるの? 世の中のことは、ほんとにどんなことであれ「絶対間違いない」なんてことはない。そうでしょ? それともこの人は、「裁判は絶対に間違いない」と思ってるのだろうか。——そういえば、この人は国会議員になる前は検事さんだったそうだ。なるほど。あなたは常に「絶対間違いない」人だったわけね。あなたの手にかかった被疑者たちはほんとに哀れだったわね。

人間は、必ず過ちを犯すのだ。なぜ、そんな単純なことがわからないのだろう。世の中は、だいたいは正しく動いている。だから世の中はちゃんと動いている。裁判だって、だいたいは正しく機能している。だから裁判制度はきちんと働いている。——だが、「絶対」ではない。だいたいは正しくとも、わずかであれ誤りは混じる。だからこそ、その誤りが「取り返しのつかない誤り」にならないようにしないといけない、というのがそんなにおかしな考えなのか?

・・まぁ、この佐々木知子という人、僕とはかなり考え方が相容れないタイプの人であることは確かのようだ。死刑制度以外のところでも、「自虐史観」とか「国防義務」とか「国旗国歌の尊重」とか「個人の自由・権利の蔓延」とか、そういう言葉がびしばし飛び交っていて、「なるほど、そういう人たちってほんとにいるんだなあ」ととてもためになりましたです、はい。

僕は、自分の死刑廃止の考えが絶対とは全く思わないし、それに反対する人の意見もいろいろと聞いてみたいと思ってはいる。ただ、もうちょっと「ふつーに理解できる」意見であってほしいよなぁ・・。死刑制度については、まだまだ勉強不足なので、「こういうとってもためになる意見がありました」というのがあればどうぞ教えて下さいませ。

公開日: 日 - 2月 27, 2005 at 06:47 午後        


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