責任の所在
事故の要因は運転士個人ではなく会社にある。もちろんそうだ。・・だが、そこでおしまいなのだろうか。
JR西日本の脱線事故。その後、JR西日本の安全に対する感覚の鈍さのようなものが露呈してきて、当初危惧していた「運転士のせいにしておしまい」というようにはならないですみそうな感じになってきた。運転士は、運転席で操縦のレバーを握りしめたまま遺体で発見されたそうだ。技術的に未熟なものはあったのだろうけど、少なくとも最後まで運転席でなんとかしようとした末の事故だったのだろう。死人に全ての責任を押し付けて終わりとなってしまってはあまりに不憫だ。
・・JR西日本は、ともかく「私鉄より一秒でも速く」を追求し続けていたようだ。問題の路線では少し前にダイヤ改正があり、快速の停車駅が1つ増えたのだけど、始発駅から終着駅までにかかる時間は全く変わっていなかったという。止まる駅が1つ増えたのにかかる時間は変わらない。もちろん、それを実現するために新しい車両を導入したとか新しいシステムを開発したということも全くない。要するに、「お客の便利のために停車駅を増やした、だけどそのせいで時間がかかるようになることは許さん。だから運転士は今まで以上に頑張れ、以上」ということだったらしい。
このJR西日本の体制が事故におけるもっとも大きな要因だったことは次第に明らかになってくるだろう。「やっぱりJR西日本という会社が悪かったんだ」とみんな思う。僕も思う。・・ただし。「でも、そこで終わりなの?」とも思うのだ。まだ先はないの?と。
1秒でも速く。安全うんぬんは脇において、とにかく1秒たりとも遅れるな。——それは、JR西日本という会社の使命のようなものだった。だが、なぜそこまで「1秒の遅れ」にこだわらなければいけないのか。それは、JR西日本を利用する多くのお客が、それを望んだからではないのだろうか。
JR西日本では、わずか数十秒でも列車が遅れると、途端に苦情が殺到するという。土地柄というのもあるのかもしれないが、ともかくJR西日本の利用者は「1秒でも遅れることを許さない」という態度の人が多かったのは事実ではないか。JR東日本よりもはるかに私鉄との競争が激しいということもあってか、こうしたお客の態度が、JR西日本の「スピード至上主義、定刻運行至上主義」へとつながったのではないのか。
「定刻通りに運行することは大切だが、安全の方がもっと大切だ」と、口で言うのは容易い。では、我々はそのために「列車がいつも定刻より1〜2分ずれて運行されてもいい」と思えるだろうか。「安全が重要なのは当たり前だ。だけど、そのために運行に支障をきたしてもらっては困る」と、僕らは当たり前のように矛盾する2つの要求を常に突きつけていたのではないか。
世の中には「全ての要求が完璧に通る」ことなどそう多くはない。ある重要な要求を通すためには、それ以外のものを引っ込めざるを得ないこともある。僕らは「安全」という要求のために、その他の要求をどれだけ引っ込めることができるだろうか。「大企業なんだから、新技術とかなんとかで時間も遅れず、安全に運行するシステムを作れ!」という人もあるだろう。もちろん、それは正しい。だが、そんな都合のいい新技術が今日明日のうちに生まれる訳でもない。また最新技術をいきなり全ての路線に投入するには莫大な費用がかかる。それは当然、利用者に「運賃値上げ」として返ってくることになるだろう。
今、現時点で完全には行えないことを、技術や根性で解決することはできないのだ。安全を我慢するか、正確な運行を我慢するか、最新設備のために運賃値上げを我慢するか。いずれにしろ、僕らはどこかで何かを我慢しなければならない。企業は、魔法のランプに棲む巨人ではない。「いえばなんでも望みが叶う」わけではないのだ。
我々はお客だ。お客なのだから、会社の事情など考えず、ただ闇雲に要求することは、もちろんできる。だが、それがそのまま実現できるとは限らない。完璧に実現できないことをなんとかつじつまを合わせようと無理をした結果、今回の事故に至ったのではないか。だとするならば——事故の最終的な責任の所在は、「ひたすら速度と正確な運行を要求し続けた我々利用者」にあるのではないか。
ただひたすら文句を言えばそれでおしまい。後は会社が全部なんとかするだろう。僕ら「お客」という立場の人間はそれが許されると思ってきた。だが、たまにはこの「お客の責任」というやつを考えてみる必要があるのではないか。僕らは、お客であることを盾に何をどこまで要求し続けてきたのだろう。それは、客観的にみて正当な要求だったのだろうか。実は、お客という立場を利用した無理難題を押し付けていただけではないのか。——少しぐらいは、そのことを考えてみようじゃないか。
もちろん、JR西日本という会社の責任は追求しなければいけない。それは当然だ。だが、「お客の責任」については、おそらく誰もが決して追求することはないだろう。だからこそ、僕らは自分で追求しなければならない。少なくとも、「自分には何一つ非などない」と当たり前のように思うことだけはないようにしたい。と思うのでした。
公開日: 日 - 5月 1, 2005 at 07:12 午後