補償問題の混乱


列車が突っ込んだマンションの補償問題が物議をかもしているそうだ。

尼崎の列車事故で、列車が突っ込んだ、あのマンション。そこでの住民とJRの間での補償問題が紛糾しているらしい。JR側は、マンションの購入価格で買い取るという条件を提示。これに対し住民側は「それでは他で同程度のマンションは購入できない」ということで反発している。——まぁ、両者の間でのいい分はいろいろあるだろうし、両者で納得がいくまで話し合ってほしい、としかいいようがない。こういっては何だが、結局は「他人ごと」の話なのだから。いや、突き放しているわけではなくてね、こういう問題は当人と当人の間での問題であって、他人が関与するようなものではないのだから、お互いが納得すればそれが一番と思うのだね。

・・が。世間というのはそういうものではないらしい。この補償問題があちこちで物議をかもしているようなのだ。

まぁ、果たしていくらで買い取るのが適切かというのは置こう。僕がこの問題に関してなんというかのどの奥に何か引っかかった感じがしてならなかったのは、「順番が逆だろう?」ということだった。——この事故での最大の被害者であり、真っ先に救済しなければならないのは、事故の被害者である。これは当たり前のことだ。百名以上の人が亡くなっており、今も多くの人が入院していたりけがに苦しんでいる。そして、そうした被害者との補償交渉は、まだ始まっていないのだ。

マンションの住民は、確かに避難生活を強いられて大変だろうと思う。だが、避難生活をしているのは、実は本人の意思である。マンションは、別に住めない状態ではない。事実、2軒はそのままあそこで生活を続けている。あくまで精神的、心理的な問題なのだね。例えば新潟の地震の被災者や、三宅島の避難民などとは質が違う。

もちろん、彼らを批難するつもりは全くない。そこは勘違いしないでほしい。——ただ、思うのだ。これにより、彼らの態度はおそらく多くの人の反感を買い、多くの人を敵に回すだろう、と。事実、あちこちでこのマンションの住民たちを批難する声があがっている。「被害者を差し置いてJRと交渉し、あまつさえ買った価格以上の金を要求してやがる」と。・・もちろん、住民たちだって被害者だ。そのことははっきりしている。彼らには何の責任もないのにいきなり人生設計をやり直すはめに陥ったのだ。だから彼らの憤りはわかるし、要求も理解できる。

・・ただ、彼らはなぜ気づかなかったのだろう。自分たち「だけ」が被害者ではないことに。もっと先に救済すべき人々がいることに。彼らのためにもそのことが残念でならない。

彼らが「私たちのことはどうでもいい、とにかく一刻も早く犠牲になった人の遺族やけがをされた人たちとの補償を解決してほしい。それまで私たちは待ちますから」という態度を貫けば、彼らは批難されることはなかっただろう。そして、おそらく彼らの要求の多くは人々に受け入れられ、彼らの味方に付けることができただろう。——だが、彼らはその最初の部分を間違えた。そのために自分たちが悪者になりかけてしまっている。

世間というやつは、その人がどういう人かで判断しない。「どう見えたか」で判断するのだ。被害者に見えない人々は、被害者として扱われない。どんな大変な目に合おうと、態度が悪く見えれば「なんだあいつは」と思われる。その人のいうことが本当に正しいかどうかは問題でなくなる。確かに、本当の被害者を差し置いて補償交渉をする姿を不快に感じる人もいるだろう。だが、本当の当事者を差し置いて偉そうに当事者を断罪する自分の姿は果たしてどうなのか?ということまでは考えないのだ。

少なくとも、彼らは被害者である。そして、自分たちの被害の補償を要求する権利がある。そのことは確かだ。その根本を忘れてこの問題を見てしまってはいけない。少なくとも、彼らは正しい。事故には全く何の関係もないのに、偉そうに彼らを断罪する我々よりは、はるかに。——補償は、当人どうしの問題である。それ以上でも以下でもない。最近、やたらと騒がしくなっている外野の人間たち、少し黙りましょう。彼らより、あんたのほうが遥かに不快だ。

公開日: 水 - 6月 8, 2005 at 06:22 午後        


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