名文と悪文
夫婦揃って読書の日々。乙一はやっぱり天才だった。
数日前から、嫁が乙一にはまっている。以前、このブログで「乙一は天才だ」とか書いたのを読んで、「パパが天才っていうならちょっと読んでみる」といって家にあった文庫を読み始めたのだ。——これが驚いたことに、面白かったらしい。「驚いたことに」というのは、正直いって、成人で乙一のすごさをすんなり認められる人間はあまりいないのではないか、と思っていたので、嫁が思いの外に乙一の天才さを的確に見抜いていることにちょっとびっくりしたのだ。で、千葉に出かけたおりに4冊ほど更に買ってきて、それから夫婦して読んでいる。
乙一を批判する人は、「別に真新しくもない、○○や××で使われてるネタだ」みたいな指摘をする。それほどオリジナリティの高いストーリーじゃない、二番煎じばかりじゃないか、ということだろう。が、これは逆にいえば、「同じようなアイデアなのに、乙一が書くとこんなにも面白い」ということではないか。そういうのを天才というのである。彼の文章は、すらすらと読める。すらすらと目が文字を追い、そのまま脳裏にその映像が映る。もうその時点で「こいつは天才だ」と認めざるを得ない。こういう「簡単な文章」というのは、天才にしか書けないのだ。
ところがぎっちょんちょん。世の中には、そんな単純な道理のわからない人間がたくさんいる。「子供にでもわかる文章」を書くのは子供だと思っている人間がいる。そして、実に難解で難しげな文章を書く人間を「すごい」と勘違いしてしまったりする。普通の人が書けないような難しい文章を書くのは、実は案外にやさしいのだ。誰もがすんなりと何も引っかかることなく飲み込めるような文章を書くことこそ、至難の業なんだ。一応、文章書きの端くれとして、「誰でもすらすら読める」文章を書くのがいかに難しいか日頃から痛感しているモノの一人としては、この点だけは強調しておきたい。
「いい文章」の話をするとき、注意しなければいけないのは、「いい文章」というものの示すところのものが人によってまちまちである、という点だ。多くの人は、「いい文章=名文」だと思っている。たぶん、乙一の文章を「べつにたいしたことない」と思っている人の多くも、「こんなものが名文のわけない」と思っているのだろう。その通り、乙一の文章は「名文」ではない。ある意味、悪文である。そして、すばらしく「いい文章」なのである。
名文とは「美しい文章」のことであると思う。つまり「美文」だ。喩えていえば、志賀直哉や川端康成などが名文(美文)なのだろう。島崎藤村や、僕の敬愛する藤沢周平も美文家だろうと思う。これは、確かに美しい日本語を伝えてくれるものであり、誰もが「文章のお手本」として納得するものだ。が、だからといって、こうしたものばかりが「いい文章」ではない。世の中には、凄まじい「悪文」でありながら、すばらしく「いい文章」というのもある。
池波正太郎。この人の書く文は、典型的な「悪文」である。なぜなら、この人の文章をお手本に小説など書こうものなら世間の物笑いになること必定だからだ。池波正太郎の文章は、「池波正太郎印」というハンコがばーんと押してあるようなものであり、池波正太郎以外の誰も書けないし書いてはならない、そういうものなのである。野坂昭如などは、真似すること自体が不愉快きわまりない体験となることだろう。だが、これらの小説家の作品は、すばらしくすぐれたものばかりである。が、いずれも「文章のお手本」としてはならないものばかりなのだ。そういう意味では、いずれも悪文である。
そういうことというのは、別に文章に限らずさまざまなところである。すばらしいクラシックのオーケストラよりも、町中でギター一本でがなる歌の方がはるかに胸に届くことはないか? 教科書に出てくる名画より子供の落書きまがいのイラストの方が心をとらえることはないか? 「名作」だけが「いい作品」とは限らないのだ。(いや、別に池波正太郎や野坂昭如が子供の落書きまがいのものだといってるわけじゃないよ、念のため)
難しそうなもの、偉そうなもの、立派そうなもの。そうしたものを僕らは無条件に「すぐれたものだ」と思ってしまうところがある。「名文(美文)こそすぐれた文章」という感覚の裏には、そういした意識があるように思えてしまうのだ。偉そうにも立派そうにも見えない、誰もがごく自然にすんなりと読める文章。それこそ、本当の意味での名文ではないか。——文章も、そして人間も、そうありたいものだな、と思うのでした。
というわけで、乙一。だまされたと思って「平面いぬ。」の一冊も読んでみて下さい。
きっと「だまされた」と思うはずです。(おい)
公開日: 日 - 6月 13, 2004 at 06:33 午後