住民投票は正しいのか


民意を反映させることは、本当に正しいのだろうか。

3月にはいって、全国の市町村で密かに流行っているものがある。それは「住民投票」だ。市町村の合併のための特例措置をいろいろと決めた法律の期限切れが迫ってるということもあって、「駆け込み合併」がどんどん生まれてる。その合併の是非を決める住民投票もピークを迎えているというわけ。へぇ、町の行方を決めるのに住民投票が当たり前になったのか、時代も変わったもんだなぁ、と思いながらあれこれニュースを見ているうちに、ちょっと気になることを知った。

合併に関する住民投票をすると、かなりの確率で「合併反対」が勝つ、というのだ。例えば、埼玉県では今まで合併賛否の住民投票が29の市町村で行なわれたが、その結果、すべての市町村で反対が賛成を上回ったという。これにより合併が取りやめになったケースも多い。「民意が反映された」ということだ、住民投票万歳。——そうなんだろうか? 僕には、この「すべて反対の結果」というところに何か引っかかるものを感じたのだ。これが「7割が反対」とかならわかる。だが、全部反対というのは、なんとなくおかしい気がしないか?

一体、反対の理由は何なのか。合併と一口に言ってもさまざまな状況が考えられるのだから、その理由も様々だ——と思うだろう。ところが違うのだ。合併反対の主な理由、それはとても単純なものらしいのだ。

理由その1。「新しい市の名前がイヤだ」
理由その2。「新しい役所があっちの町にできるのが気に入らない」
理由その3。「今のままがいい」

反対する人間の多くが、この3つのいずれかの理由だという。——そこには「なぜ合併するのか」という、合併の本質的な部分は何もない。合併にはこういう問題がある、こういう利点があるといったこととは無関係に賛成反対の票が投じられるのだ。

住民投票というのは、「住民の民意」を行政に反映させるものとして脚光を浴びている感がある。原発の建設やダムの建設などで、住民投票によりそれらが頓挫するということも起こり得るようになった。「これで住民の意思が正しく行政に反映されるようになった」——そうなのだろうか。住民投票は、本当に「人々の意思を正しく反映」できているのだろうか。そして。

すべての住民の民意を行政に反映させるのは、本当に正しいことなのか。

埼玉県の江南町では、合併復活を求める署名が全有権者の半分に達した。この町では、住民投票により一度は合併が取りやめになったのだ。ところがその後、賛成派による署名運動をしたところ、過半数が合併賛成の署名をした。果たしてどちらが本当に正しい「民意」なのだ? ——この町では合併反対に決まった後、この町だけ合併に参加しないでいくとどうなるか試算したところ5年後には財政が保たなくなるという結果が出て、慌てて「やっぱり合併!」という意見が噴出したらしい。署名を集めに家を回ると、多くの家で「合併ってなんですか?」と尋ねられたという。人々の大半は、合併が何だか知らずに住民投票をしたのだ。「なんかわからんけど、役所が何かやるっていってる。いらんいらん、そんなわけわからんもの」・・そして反対が半数を上回り、合併は頓挫し、そして町の財政はゆっくりと破綻へと向かうことになる。

住民投票は確かに「民意の反映」のための重要な要素の一つだ。だがしかし、それを行使する際には考えなければならない重要な問題がある。それは、「人は、日々を暮らすのに忙しい」ということだ。行政がどうとか、そんなややこしいことを時間を割いて勉強する人などほとんどいないのだ。わしらは忙しいんだ!

忘れてはならないのは、住民投票というものを持ち出すことで、行政の責任者が「わしが決めたんじゃないもんね」と責任回避をするための道具として機能してしまうという点だ。「お前らみんながこうするって決めたんだろ。わしが決めたんじゃないもんね。だから、この町の財政が傾いてとんでもないことになっても、わしのせいじゃないもんね。お前らが悪いんだもんね」——住民投票の乱発により、そうした無責任な行政を生み出すことになってしまったとしたらどうする?

直接民主主義は間接民主主義より上なのか。——これは、永遠のテーマだろう。僕らの住む日本という国は、ほぼすべてが間接民主主義で運営されている。だから、直接民主主義に憧れる部分がある。大統領制にして、大統領は国民の直接投票で決めよう!とか、重要な政策決定は住民投票で決めるべきだ!とか、そうやって「すべての国民が直接参加できるようになれば今より政治は良くなる」と無条件に思っているところがある。

その一方で、例えば司法の世界では、「餅は餅屋」的感覚が根強くある。こちらはやっと裁判員制度により一般市民も参加できるようになろうというのに、「法律の専門家でない人間が判決に参加するのは問題だ」「専門家に任せた方がいい」という意見が今も根強い。なぜか。——それは、「司法への参加は、面倒くさい」からである。暇なとき、ちょこっと裁判所に行って「はい、死刑」と投票したらおしまい、ではない。裁判をきちんと傍聴し、時間をかけて議論し、判決を考えなければいけない。とても面倒なのだ。これに対して、行政の場合は、ちょこっと投票所に行って投票して(あるいは、別に投票なんかしなくても)「我々みんなで決めたんだ!」という気分を味わうことができる。

権利は、本来、義務とセットで提供されなければならないもののはずだ。義務のない権利は存在しないし、権利だけを要求して義務を果たさないことも許されない。——「我々に直接決めさせろ! その権利をくれ!」というのであれば、そのための義務も果たさなければならない。それは、「決めるべき行政について学び、理解し、正しく判断する」ということである。面倒くさい義務を果たそうとせず、ただ与えられた権利だけを行使する。それで正しい結論が得られるわけなどない。

住民投票は、我々市民の重要な権利だ。この大切な権利を失わないために、僕らはその義務を果たさなければならない。「そんなの面倒くさい」と思うなら、そもそもそんな権利など欲しがるな。——全国の、これから住民投票がある市町村の皆さん。権利を正しく行使するもドブに捨てるも、あなたたち次第です。

公開日: 月 - 3月 28, 2005 at 03:38 午後        


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