今日は聖日


今日は、クリスマス。昨日がクリスマスと思った人、メッ!
クリスチャンかどうかは別として、たまには聖書でも読もっと。

なぜか、日本ではクリスマス「イヴ」が、クリスマスの日と勘違いされている気がする。まぁ、外国からクリスマスの風習が入ってきたからしょうがないのだろうけど、クリスマスイヴのお祭り騒ぎだけを楽しんで、肝心かなめのクリスマス当日がなくなってしまっているのはどういうわけなんだろう。別にオレはクリスチャンではないけれど、そういう点は釈然としない。

子供の頃、我が家では、クリスマスはろうそくの灯の中で、父親が聖書を読んで始まった。その朗読(といっても短い一節ぐらいだったけど)が終わって、それからはじめてケーキにありつけたのであった。——最近知ったのだけど、父親はクリスチャンだったらしい。といっても教会にいったりしたのは見たことがないから、精神的クリスチャンだったんだろうな。そのせいか、クリスマスというと聖書を思い出す。

娘が少しずつ成長するにつれ、クリスマスっていうのは一年の中でも一番楽しいイベントになってくるんだろう。だけど、どういうクリスマスの祝い方をすべきだろう。ケーキを食べてプレゼントをもらっておしまい、では何か物足りない。やっぱり、聖書を読んで聞かせて、今年も楽しくこの日を迎えられたことを感謝してから祝う、そういうものにしたい。クリスチャンかどうかというのとは別に、やはり聖夜というのはそうして祝うものだと思うのだ。

思うに、クリスマスを祝う人の中で、聖書を読んだことのある人はどのぐらいいるのだろうか。クリスチャンでなくとも、一度ぐらい読んでおくのは決して悪くはないと思うのだが。——昨夜、そういうことを嫁と話したとき、「世の中に、完全なものはないことを教えるのにはいいかも」といっていた。なかなか鋭い見方をするなこいつ。

聖書の中には、ある種の差別意識がある。そういう時代に書かれたものだとはいえ、今の時代からすると人権感覚の鈍さを感じる記述もあちこちにある。だが、それで「聖書なんて読んでも無意味だ」とはならない。宗教というものを脇において考えても、先人の教えには何かしら得るものがある。聖書に限らず、例えば中国の古典だとか、仏教の経文であるとか、世界の古典的な物語であるとか、そうしたものにはどこかしら現代に通ずる教えがある。が、だからといって「それが100%すべて正しい」わけでもない。宗教を信じる人にも信じない人にも、そのバランス感覚を欠いた人があまりに多いように思えるのだ。

クリスマスを祝うのであれば、「世界の多くの人々が信じる物語の一つなのだよ」ということも一緒に伝えたい。そして、多くの人がなぜそんなにもこの日を大切に祝うのか、そういうことを考えられる人間に成長して欲しい。それは宗教とは別のことだ。多くの人が大切に思うものの中には何かしら素晴らしい考えがある、だがどんなに素晴らしいものであってもそれを盲信したのでは活かされない。そういうことを、クリスマスという日は親から子へ伝える日にできないか——そう思うのだ。

公開日: 木 - 12月 25, 2003 at 07:25 午後        


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