法は、誰のものか


それは、国のものなのか。民のものなのか。

続き。

今回の山口母子殺害事件を見ていると、「法とは一体、誰のものなのか」ということについて考えさせられるのだった。なんとなれば、多くの人々は、法は「国のものである」と考えているように思えてならなかったからだ。「国が民を律するために与えたものである」という感覚のように思えるのだ。

多くの人が、「こいつを死刑にしろ」とあちこちで叫んでいた。それを見ていると、ほとんどの人は、死刑「にしてくれ」といっているのだね。死刑「にしてやる」という人はいないのだ。もちろん、自分が決められるわけじゃないのはわかっているけれど、心情的に「他人任せな死刑」を望む印象しかないのだよね。あくまで、人は「国が死刑にしてくれる」のを望んでいるのだ。そこには、「私たち日本国民が、この人間を死刑にしてやるのだ」という感覚は微塵もないのだった。

自らは手を下さない。手を下すのはあくまで「国」。私は何も手を汚さない。だからこそ、平気で厳しい罰を主張できる。なにしろ、自分がやるわけではないのだ。自分に成り代わって、もっと高いところにいる人間が、下々のものに罰を与えるのだから。

被害者遺族の本村氏(あちこちで間違って書かれているんだけど、この人は「被害者」ではない。被害者の「遺族」だ)の「死刑」に対する歪んだ見解があちこちに載っていた。「死刑を言い渡された人間が、心底反省し、改心する。そうした人間の命を残酷にも国が奪う。そこに死刑の意義がある」というやつだ。これがどうにも不快でならなかった。

法は、残酷なものであってはならないのだ! なぜ、そんな単純なことがわからないのか?

多くの人は、法は人々に罰を与えるものであると思っている。だからこそ法とは残酷であり、厳しいものなんだ、それが当たり前だと思っている。違う! 法は、人々を守るためにあるのだ! だからこそ、本来、やさしく暖かいものなのだ。

憲法、刑法、民法、どれでもいい、その条文を細かく読んだことがあるだろうか。そのしかつめらしい文言の裏側に、いかにして弱きものを守るか、その強烈な意思を感じ取れないか? 法は、人々の「父」ではない。「母」なのだ。

法は、我々のものなのだ。我々が、自らを守るために手に入れた武器なのだ。なぜ、それを「国家が民を裁くための武器」として、自らの手から放棄し、国家に投げ与えるのだ? なぜ、法を我々の手に取り戻そうとしないのだ?

法は、我々のものだ。我々が、我々の生活を守るためにあるのだ。——どうか、その視点のもとに、罪と罰について考えて欲しい。そう僕は願わずにはいられない。

公開日: 水 - 4月 23, 2008 at 11:07 午前        


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