「反省」というシステム


日本においては、「反省」はシステム化されている。反省したか否かではなく、システムに従わなければ反省は認められない。

昨日、山口の母子殺害事件の差し戻し審判決があった。やはりというか、予想されていたこととはいえ、死刑判決となった。新聞は昨日の夕刊から今日の朝刊まで、この事件に関する記事でいっぱいだ。ざっと目を通して、判決の骨子がどういうものかが少しだけわかってきた。

前回、高裁では一度、無期懲役の判断を下している。それが最高裁にあがり、そこで差し戻され、そして再度の判決で死刑となったわけだ。となれば、「前回は無期で、今回は死刑、一体どこにその違いがあったのか」ということに自然と関心が向く。

その最大の違い。それは「反省」だった。前回のときには、まだ被告も幼く(若く、じゃなくてね)、今後の更生の可能性もないわけではないと思われたが、今回は「もう更生は期待できないだろう」と判断が変わったわけだ。その最大の要因となったのが、「反省の姿勢が全く見られない」ということだった。

この「反省」というのは、果たしてどう判断されるのか。そもそも、人が他人の心情を外部から見た言動のみで読み取れるものなのだろうか。一体、どうやって反省しているかどうかを判断できるというのか。——実は、それは驚くほどに簡単なことなのだった。

罪を認めるか否か。

これこそが、「反省」のもっとも重要な要因なのだ。そういうと、「そりゃ確かに罪を認めなければ、反省してないと思われてもしょうがないだろう」と思うかも知れない。だが、ここでいう「罪を認める」とは、世間一般の感覚とはかなり違うものなのだ。なんとなれば、それは「検察の言い分をすべて認める」ということに他ならないからだ。すなわち、「ここは検察のいっていることは違います」と意見して争えば、それは「罪を認めていない」ことになるのだ。実際に反しているかどうかは関係ない。例え、「本当はそうじゃないんだけどな」というところがあっても全て「はい、おっしゃる通りに間違いありません」といわないといけない、そういう「システム」なのだ。

僕は、現在の司法についてはかなり肯定的に考えている。欠点もあるけれど、まぁ昔と比べれば、また他の諸外国と比べれば、かなりマシな方ではないか、と思うのだ。けれど、この「反省」のシステムだけは、どうしても納得することができないでいる。

このシステムは、裁判を「心情」で行うことにつながりかねない。裁判とは、「真実とは何か」を追求すべきところではないのか。そのためには、1つ1つの事柄について細かに検証していく姿勢こそが大切なはずだ。が、この「すべていうことを丸呑みすれば『反省』という許可証が貰える」というようなシステムにおいては、「真実の追究」はまったく期待できなくなってしまう。本当は何があったかより、被告がどれだけ司法のいいなりになれるか、それを判断する場に成り下がってしまわないか?

実は今回、僕は判決文の中で非常に注目していた箇所が1つあった。それは、死因に関する判断部分だ。先に検死鑑定で、検察側の言い分とは異なる鑑定結果が(それも2人の鑑定から)出されている。いずれも非常に信頼に足るものだと思えるだけに、更にはその判断によって「強い意思による殺人か、偶発的な傷害致死か」が分かれるものであるだけに、かなり期待して読んだのだ。

だが、新聞に掲載されていた判決文では、この点については「矛盾している、信用するに足らない」とあっさり退けられてしまっていた。確かに、この期に及んで「実はこうでした」と言い分を変えれば、誰だって信用しないだろう。だが、少なくとも鑑定によれば、検察の主張の通りに殺人が行われたのではないことになる。鑑定が間違いか、それとも検察の主張とは異なるところがあったのか、いずれかだ。しかし、裁判所は「鑑定は間違いである」とも「検察の主張には誤りがあった」ともいわなかった。鑑定書は間違いだとはいわず、がしかしそれにもとづいた弁護側の主張は「無理がある」と退ける。何なのだ?「この鑑定は、でたらめだ」というのならまだわかる。日本で指折りの鑑定医が嘘の鑑定をしたと裁判所は判断したのか? であるならば、信頼に足る鑑定を改めて取り直すべきではないのか。それとも——そもそも「鑑定などどうでもいい」のだったのか。

今回、新たに選任された弁護団は、かなり非常識な主張をしたのは確かだった。それまでの「反省の意を表し、情状酌量を訴える」ことをやめ、「真実は何かを追求する」という方向に大きく舵を切った。が、その主張は、世間的に見てかなり非常識なものだった。だから世間が「あんなのは嘘っぱちだ」というのはわかる。なにしろ、メディアはすべて被害者の見方だ。今回の事件ほど、一方的に偏った報道がされた事件は近来なかったのではないか。これだけ偏った報道をされれば、誰だって「犯人憎し」で一致するに決まってる。

だが、裁判所がそれと同じ見方をしてはならないはずだ。「非常識か否か」で事実はどうだったかを判断すべきではないはずだ。本当は何があったのか。その追求なしに判決は出せないのではないのか。

ともあれ、高裁は終わった。だが、おそらくはまだこの裁判は続くだろう。もう少しだけ、見続けることにしようか。

公開日: 水 - 4月 23, 2008 at 10:49 午前        


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