三浦和義は悪人か?
日本では無罪、米国ではどうなるのだろう?
しばらくブログの更新をさぼっていた間に、「これは書いておかないとな」と思ったことがずいぶんたまってしまった。その中で、思い出せることだけ書いておこう。
三浦和義氏が逮捕された。米国に送られ、裁判となるという。メディアなどの扱いを見ると、実に面白い。かつてロス疑惑事件のときのような熱狂的な感じとはほど遠く、なんというかぎこちない対応というのか、どう扱えばいいのかわからない感じが伝わってくる。
彼は、この事件に関し日本で既に無罪判決を得ている。今回、逮捕されたとはいえ、まだ「被疑者」であり有罪かどうか(そもそも立件可能なのかさえ)不明な状態だ。彼を犯罪者として扱うことはできない。いや、本来ならばすべての被疑者は、その時点では犯罪者として扱うべきではないのだけど、日本の「立件すれば99%が有罪」という不気味なほどに高い有罪率のおかげで「逮捕されたら有罪に決まってる」という暗黙の了解がまかり通っている。が、さすがに今回、それは通用しないとメディアもわかっているのだろう。
彼が米国で立件されるのか、また有罪になるのかは僕にはまったくわからない。が、もし万が一、有罪となったとき、非常に気がかりなのは「それによって彼のそれまでの言動全てが悪と決めつけられてしまうだろう」ということなのだ。
彼は、あの事件の後、冤罪事件などに関するさまざまな運動に関わっている。そして自分の体験をもとに冤罪をなくすために行動する多くの人に協力をして来た。彼が有罪となったとき、彼が発言して来た一切が否定されることになるのではないか。それだけでなく、彼が関わって来た冤罪事件に対する世間の目も、何かうさんくさいものを見るように変容してくるのではないか。
「そりゃそうだ。だって、もし有罪だったら、彼が殺してたって事だろう? だとしたら、そんな奴が発言した冤罪云々の話は、全部嘘っぱちだってことじゃないか。全部、あれは否定されてしかるべきなんだ」
そう。その感覚が、大キライなんだオレは。
犯罪者なのがバレた。その途端に、そいつの一切は否定される。犯罪者がなに偉そうなことをいってやがるんだ。ご立派なことをいうんじゃねえ、自分は犯罪者のくせに。何を言おうが、結局、こいつは悪人なんだ。——そういうのが、大キライなんだよ僕は。
あえていおう。
彼が今まで発言した内容の善し悪しは、彼が犯罪者かどうかとは全く無関係である。人殺しだろうが聖人君主だろうが、いいことをいえばそれは傾聴に値するのだし、ろくでもない話なら唾棄すべきである。「どんないい話をしても、犯罪者なら聞く耳は持たない」というのは、どこか間違っているんじゃないのか?
彼が今後、どうなるかは全くわからない。だが、あの事件以後、彼がとってきた行動、彼が発言して来た内容、それは、彼がたとえ有罪になろうと、立派であった。僕はそう思う。彼は少なくとも立派に生きて来た。たとえ、彼が殺人者であったことが暴露されたとしても。彼がどんな人間であったとしても、彼が今まで成して来たことの価値に変わりはない。
今回の逮捕がどうなるのか、それは見守っていきたい。だが同時に、その推移によって、手のひらを返したように扱いを変える連中は誰かも、注視していきたい。——世の中には「犯罪者ではない」というだけで、彼より遥かに品下がる人間がごまんといる。そうした人間が、偉そうに彼を断罪する。僕には、そのほうがはるかに罪深く思えるのだ。
公開日: 日 - 3月 9, 2008 at 11:35 午前