そんなに「便利」が大切か
便利であることは、そんなに他のナニモノをも犠牲にするほどに大切なことなのだろうか。
キッチンの紹介を書いているうちに、ふと思ったことを書いておく。
我が家のキッチンが、それ以前と何が大きく変わったのか。ほんの1年前には、若葉区の建売住宅に住んでいた。そこでもそれなりに楽しく暮らしていた。だが、その当時と今とでは、明らかに意識が違っている気がする。それは、「便利である」ことに対する考え方だ。
例えば、しばらく前から我が家は保温式のポットをやめ、電気ケトルに切り替えた。電気ケトルというのは、水を入れて電気でお湯を沸かすケトル(ヤカン)だ。一応、本体は二重のステンレス構造になっているので冷めにくくはなっているけれど、まぁ1時間もすれば沸かし直さないといけないだろう。保温ポットならいつでもお湯が使える。電気ケトルだと、お茶を飲みたくなったら水を入れてお湯が沸くまで数分待たなければいけない。
が、実際に電気ケトルにしてみると、「水を入れてお湯が沸くまで数分待つ」というのがたいしたことでないのにすぐ気がついた。朝にしろ食事時にしろ、ばたばたとやることがあるわけだし、数分など何かしていればあっという間に過ぎてしまう。考えてみれば、僕が子供の頃は、毎朝ヤカンでお湯を沸かして魔法瓶に移すのが日課だった。それで不便を感じたこともなかった。
確かに、時代とともに世の中は便利になった。だが、その「便利」は、一体何のために必要なものだったのだろう。便利さは、一体何を生み出し、我々に与えてくれたのだろう。僕は思うのだ。世の中にあふれる「便利」の大半は、ただ僕らに「だらしない暮らし」を与えただけだったのではなかったか、と。
世の中には、必要な「便利」もある。とある人たちにさまざまな恩恵を与える「便利」もある。だが、益よりも害の方が大きい「便利」もあるのではないか。せいぜい一日に数回、お湯を使うために、一日中電気で保温し続けるポット。しかも「いつでも使える」ために、多量の使うか使わないかわからないお湯を保温し続ける。なぜ、「必要な少量の水を必要なときに沸かす」ではいけないのだ。
もちろん、我が家にだって様々な便利器具はある。食洗機は、一度使ってしまうとこれなしの生活は考えられないくらいだし、トイレはウォッシュレット・ウォームレットが当たり前になってしまった。人間、誰だって楽をしたいものだ。
その代りに、食洗機は「ゆとりある時間」を我が家に与えてくれたし、トイレは家の中で一番くつろげる場所になった。その恩恵は実に大きかった。だが「いつでも待たずにお茶やコーヒーを入れられる」という恩恵は、別になくてもいい恩恵だ。そのために失われるものを考えたなら、あるだけ迷惑な恩恵かも知れない。
……こんなことを考えるようになったのも、あるいは「ログハウス」に暮らすことになったためかも知れない。ログハウスは、ある意味、最近の新しい住宅にあるさまざまな「便利」を諦めることからすべてを始めなければならない。「これはできません」「あれはできません」といった制約だらけの家だ。だが、だからこそ家を建てる段階で「それは、本当に必要なものか」「何がもっとも重要なものか」を考えるようになった気がする。おしゃれな壁紙だのは使えない、間取りの変更も自由には出来ない、定期的に外壁もウッドデッキも塗り直さなければいけない。ログハウスは、ある意味、不便で不自由だ。
そして、さまざまなことを考え、我が家はあえてその「不自由」を受け入れることに決めた。その不自由、その不便は、我が家が考える生活を実現するために必要な不自由であり不便なのだから。そして——今の、このすばらしく快適で心地よい暮らしがある。今日もこの寒空の下、残っていたウッドデッキの塗装に励んだ。新建材の「腐らない義木」ならこんな手間はかからないだろう。だが、そんな暮らしは「イヤ」だ。便利であろうと、そんな暮らしなどまっぴらだ。
世の中は、なべてトレードオフだ。何かを手に入れるためには何かを手放さなければいけない。どんな「便利」であれ、それは必ず何かと引き換えなのだ。多くの場合、それに気づかないだけで。——である以上、僕はその失われるものの価値を注意深く評価していこう。それを失ってまでも欲しい「便利」かを注意深く考え値踏みしよう。
そうやって、我が家は今までいくつかの「便利」の化けの皮を剥いできたのだから。
公開日: 火 - 1月 15, 2008 at 05:01 午後