景観破壊訴訟の恐怖


・・・もしかしたら、うちも訴えられるかも知れない。そういう時代になった、ということか?

楳図かずおさんが建築中の自宅を巡り、だいぶ前から悶着が起こっているね。外観を赤と白の縞模様にするというので「景観を破壊する」という理由から近隣住民が建築差し止めの仮処分を申請していた。しばらく前に「その必要なし」というので却下になって、これで一件落着かと思ったら、その住民たちが今度は建築差し止めの訴訟を起こしたとのこと。

建築予定地は、井の頭公園などの近くで、緑豊かな住宅地。住民も環境維持に努めて来た。そこに赤白のストライプなんてものを建てられたら、景観を破壊し、近隣住民の景観利益を侵害する——というのが住民の意見らしい。が、東京地裁は差し止め請求を棄却する際に「特別な景観利益があるとは認められない」と判断されたわけだ。が、住民側はそれでは納得できない、ということなのだろう。

これを読んで、ちょびっと恐怖を感じたのだね僕は。なぜって、うちが現在、建築中の新居は、ログハウスだ。住宅街には滅多にお目にかかれない代物なのだ。ひょっとして「こんなものを建てて、景観利益を侵害している」なんて訴えられることもあるかも知れない、そう思ってしまうじゃないか。

「ログハウスで、景観を破壊すると思う人はいないだろう」って? そう思いたいよ僕も。だけど、たかが「赤と白のストライプの家」でさえ訴えられる時代なんだ、どう感じる人がいるかわからないじゃないか。「木が大キライ」という人からすれば、ログハウスなんて悪魔の家だろう。

赤と白のストライプ。僕なんぞは、「ふーん、面白い色だね」ぐらいにしか思わないけど、それで景観「利益」が侵害されたと思う人がいるのだ。「利益」だよ、「利益」。そういう家を建てられたせいで、精神がおかしくなった、というのならわかる。が、「そのあたりの価値が下がった、損害を受けた」といわれたら、これは何とすればいいのだ?

景観というものが大切なのはわかる。ヨーロッパなんかではかなり厳しく規制されていたりするし、日本でも観光地や古都ではそうしたことが条例で厳しく制定されているところもある。が、「壁の色」まで口出しされなきゃいけないのか。そもそも、「この色は景観を破壊しない、この色は破壊する」などと誰が決められるというのだろうか。

「でも、真っ赤はいくらなんでもダメでしょ」という人。——実をいえば、うちからさして遠くないところに、猛烈に辺りの景観を破壊しまくっている恐怖の家がある。その家は、すべてが——「白」なのだ! 壁も白、窓も白、そればかりか屋根瓦さえ「白」、白以外のところがほんの1平方センチさえない。よく全身を白く塗って踊ってる前衛舞踏家がいるけど、あれの家版を想像して欲しい。全身白塗りの家。これ、実際に見るとかなり異様だ。かなり、怖い。「白」という色は、別に不快な色でもなんでもない。ごく普通の家に、ごく普通に使われているものだ。が、それもこんな具合に使われれば、凄まじい景観破壊の家になる。

周りを見渡せば、紫の家もある。緑一色のアパート、ピンクのマンション、フランスの国旗のような3色に分けて塗られた家、なぜだかわからないが屋根が青色のグラディエーションして塗り分けられている家なんてのもある。別に、うちの近所だけでなくて、日本中どこにもこの種の家はある。紫でも「まぁすてき」と思う家もあれば、白でも恐怖のどん底にたたき落とされる家もある。少なくとも単純に「色」だの「ストライプ」だのといった程度のことで、人の家作りをお釈迦にすることは果たして正しいのだろうか。

・・そもそも、「景観」とは何だろう。そして、景観を「破壊する」とは、どういうことだろう。たとえば、豪邸ばかりの街の中にものすごく貧乏じみた建売住宅が建てられたら、それは「景観を壊す」ことになるだろう。が、逆に、スラム街の中に豪邸が建てられた場合も、やはり「景観を破壊する」ということになるはずだ。スラム街は「良い景観」ではないだろうが、「よい景観でなければ破壊してもかまわない」ということではないだろう。そも、何を持ってよいとするか、その明確な定義さえないのだから。

景観とは、「ある一定の枠組みにそって作られた町並みによって醸し出される雰囲気」のようなものだ。したがって、景観を守るとは「その枠組みに従って家を建てる」ということであり、そうした枠組みから逸脱した建造物を建てるということが「景観を壊す」ということになるわけだ。つまりは、「周りと違ったことをしてはいけない」ということなのだ。

イギリスの古い石造りの家々の中にプレファブ住宅を建てれば、景観を損なうだろう。建売の鉛筆ハウスばかりのなかにログハウスを建てても、景観を壊すことにはなるだろう。だが、「パリの景観を破壊する」といわれたエッフェル塔が今やパリのシンボルとなっているように、景観なんてものは時代とともに変遷する。今、東京で「古き良き時代のすばらしい建造物」と思われている建物の多くは、その当時、確かに「日本古来の景観を破壊する」と思われていたはずではなかったか。

「景観を守る」とは、突き詰めれば、個人の考えなどを一切認めず、すべて「これに従って家を建てなさい」というルールを守るように強制することでしか成り立たないものだ。それはすなわち、個人の自由の侵害と表裏一体となっているのではないか。もし、そうした法律が制定され、「日本では、日本古来の純日本建築以外は一切認めない」となったとき、赤白ストライプ住宅を訴えた人たちは納得して藁葺き屋根に住めるのだろうか。それとも、「自分たちの趣味にあった景観であれば守るが、それでなければ守らない」というのか。


今回、自分で家を建ててみてわかったことがある。家作りってのは、本当に文字通り「一家の人生」を左右するようなことなのだ。それを、回りの人間のちょっとした快不快によってダメにされる。そういうことが実際にあり得る。そんなことがあったとしたら、それは恐怖以外のなにものでもない。

もちろん、だから何でもやっていいとはいわない。そのために建築基準法だの地域の条例だのがあるわけだ。が、少なくとも「その一家の人生を左右する」ようなことを、そんなに安直に行えるのだろうか。

赤と白のストライプの家。僕なら、それが隣にあっても十分受け入れられる。そこから毎日5時に大砲が撃たれるとかいうなら話は別なら、ただあるだけなら別に何の支障もない。というか、どちらかというとお友達になりたい(笑)。うちの近所にあるスラム街のような借家団地などよりは、すてきなストライプの洋館の方がはるかにマシだ。

逆に、そうした家をまるで「正義は我にあり」みたいな顔で「この地域の平穏を破壊する人間を排除しましょう」的な活動に走り回る人間のほうが不快だ。個人的に思うのだけど——そうした、さも正義面した人間の顔というのは、あたりの景観を破壊しているのでは?

公開日: 水 - 10月 24, 2007 at 10:22 午後        


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