真相なんていらない


・・・それが、光市の事件に対する、世間の圧倒的多数の思いなんじゃないだろうか。

25日、光市母子殺害事件の差し戻し審の公判があった。ここで、かなり重要と思われる証言があったのだが・・・やはりというか何というか、メディアを始め多くの媒体では、このことはあんまり重要な扱いではなかったみたいだ。このまま放っておくのも気持ちが悪いので、書いておく。

この日の公判で、弁護側が法医鑑定を依頼した2人の専門家が証言に立った。日本医科大大学院の大野曜吉教授と、東京都監察医務院の上野正彦元院長だ。2人は、本村弥生さんの首に残された傷に不自然な点があると指摘し、被告の自白である「馬乗りになって全体重をかけ両手で首を絞めた」という行為とはあわないと述べた。押さえたのは片手であり、「大声を出されたため口を塞ごうとした際に首にずれてしめつけ誤って死なせた」という弁護側の主張にそう証言をした。

また本村夕夏ちゃんの殺害についても「頭上から床にたたき落とした」という自白からすれば、脳に重い症状がでるはずだがそれが確認できないとした。また「首に巻いた紐を力一杯引いて締めた」という自白も「そのような所見はない」と説明している。

要するに、2人の殺害ともに、検察側の自白の内容と検死結果は全く整合性がない、ということを証言している。これは、実はかなり重大な証言だ。もしこれが事実なら、2人の殺害には殺意がなかったということになる。事件のキーポイントとなる証言だったと思うのだが、なぜどこも大きく取り上げないのだろうか。

「弁護側の証人なんだから、弁護側に有利な鑑定をするに決まってるだろう」と思う人は多いだろう。が、これは両氏をよく知らない人だ。大野曜吉・上野正彦といえば、日本でも指折りの法医学の権威である。それも、ただ権威というだけではない。多くの事件で、検察側の検死内容の誤りを自らの鑑定で指摘し、検察・警察によってうやむやにされかかっていた事件を検死という武器で明るみに引きずり出してきた。どのような圧力にも屈せず、「死体は決して嘘をつかない」と検死によって事件の真実を追究することに全てを注いできた方々なのだ。そうした方たちが2人もほぼ同じような見解を表明したことは、かなり重要なのではないか。

ひょっとしたら——今回の事件の真実は、予想もしていなかったところにあるかも知れない。その可能性を示したのが今回の証言だった気がする。

今回、20名を越す大弁護団が結成され、死刑回避に向けて活動してきたが、その多くは世間の猛烈な批難を受けている。「死体を押し入れに突っ込んだのは、ドラえもんが四次元ポケットで何とかしてくれると思ったから」「死姦したのは、死者に生を突っ込んで復活させる魔術のような儀式だった」「本村弥生さんに母親の面影を重ね合わせて、甘えたかった」などといった弁護内容を耳にして、はらわたが煮えくり返った人は多かったに違いない。「裁判をバカにしてるのか?」「死刑にならないなら何をしてもいいと思ってるのか?」とすさまじいバッシングが弁護団にあったことは想像に難くない。

だが——それでは、検察側のいっていることは、真実だったのか。この事件は未成年者の事件であり、取り調べは密室の中の出来事だ。そのことを指摘し、検察側の主張もまた真実とはほど遠いものであることを2人の法医学者は指摘したのではないか。

警察は、権力の手先である。見えないところでは何をしてるかわかりゃしない。そう思ってる人も、なぜかこの事件に関しては、手のひらを返して「検察・警察の取り調べはすべて正しい、弁護側のいってることは全て嘘だ」と無条件に信じている。

だから——今更、真実など持ち出してもらっては困るのだ。既に世の中の大半の人間にとって、この事件はどういう事件か既に決まっているのだ。被告は、史上稀に見る冷酷残虐な人間であり、それは事件を起こしたときが未成年かどうかなど関係なく、また将来に渡って死ぬまで更生することなど絶対不可能であり、一刻も早く、可能な限り残虐な方法で見せしめのために殺すべきなのだ。真実がそうであろうがなかろうが、そんなことは無関係なのだ。

個人的に上野氏の著作を何冊も読んだり、さまざまな事件での大野教授の鑑定結果を読んだりしてきた僕には、お二人が弁護側にあわせて歪んだ証言をしたとは信じられない。お二人は、どのような圧力があっても、それで証言を曲げるような方ではないと僕は信じたい。

いや——むしろ、そのような方たちであったからこそ、日本中の人間からバッシングを受けるとわかっていても、世間が望むような証言をあえてしなかったのではないか。「こういう証言を人々が望んでいることはわかっている、だがそれは真実ではない」と判断されたのではないか。

今回の事件はメディアによってずいぶんと細かく報道された。だが、僕らは結局、そうしたマスコミが伝えたことを見聞きした程度のことしかこの事件のことを知らないのだ。その程度の知識でありながら、まるで自分が事件のすべてをわかっているかのように犯人を断罪してはいまいか。

せっかくのチャンスなのだ。真実は何かを追求できる最後のチャンスなのだ。この公判をそうとらえて、どうか「本当は何があったのか」を追求して欲しい。たとえその結果が、我々の望まないものであったとしても。

公開日: 金 - 7月 27, 2007 at 01:47 午後        


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