我が家の常識、世間の常識
我が家では当たり前の考えが世間では全く受け入れられない、そういうのはなかなかにつらいものだね。
今日は、娘の幼児教室の日だ。まだ幼稚園に行ってない娘にとって、同じくらいのお友達と遊べる機会は貴重なので、なるべく欠かさず参加するようにしている。また妻にとっては、近所に住むお母さんとくっちゃべって、もとい、ご歓談できる機会でもある。小さい子供を持つお母さんは近所にたくさんいるんだけど、皆さんとてもお若い。少し世代が上なのは妻とそのお母さんぐらいなのだ。
ところが今日は、いつもとちょっと雰囲気が違った。例の、山口県の母子殺害事件の被告が最高裁で無期懲役を破棄された(おそらくはやり直しの高裁で死刑となる公算が高い)事件のことで、そのお母さんとまったく意見が違ったことがかなりショックだったらしい。
我が家は夫婦ともに「死刑は行き過ぎじゃない?」という考えだ。僕と妻と多少の考え方の違いはあれど、少なくとも「絶対こいつは更生しないから殺すしかない」という意見だけは受け入れがたい、という点では一致している。それが、そのお母さんから「掌田さんとこの考えは全然わからない」とばっさり切り捨てられたらしいのだね。
妻が何よりショックだったのは、その事件についてたまたま意見が合わなかったということではない。そうしたことに関する基本的なスタンスの違いに愕然とした、ということのようなのだった。例えば、先日、女友達との交際のもつれから、集団で相手の男をリンチにして殺し、死体を埋めるという事件があった。あれなど、そのお母さんは「そういう人間とつき合ってたという時点で同レベルなんだから自業自得だ」というのだ。これは何についてもそういう考えのようで、例えば万引きなどにしても「友達にいわれたからって万引きしたりするのは、結局そういうレベルの人間なんだ」という考え。要するに、「悪いことをする人間や、そういうことに巻き込まれる人間というのは、そういう低レベルな人たちなんだから自業自得で同情する余地なし」ということなのらしい。
つまりは、「そういう人間は、自分たちとは住む世界が違うんだ。自分たちはそうした人たちとはレベルが違うからそういうことには関係ないんだ」という感覚らしいのだね。そのことが妻には非常にショックだったようだ。少なくともそのお母さんだけは真っ当な人だと信じていたらしい。それが、そんな「こういう考え方の人なんてどーせテレビのドラマの中だけでしょ」的な考え方であることがわかった、そしてどうやらそれは世間的にはごく普通に思われている考え方らしく逆に我が家の考え方の方が圧倒的少数派らしい、ということが衝撃だったのだろう。
僕は基本的に死刑廃止論者だが、妻はどちらかというと死刑容認派である。下手をすると、積極的に「死刑にしろ!」とかいいだしかねないこともよくある。ただ、二人に共通しているのは、そうした凶悪犯罪を犯す人間のことを「理解不能」と考えたことはあまりない、という点だ。妻が「死刑にしてもいい」と思うのは、基本的に「人間として理解不能な犯罪者」である。とても同じ人間とは思えない、思考回路がまったく理解できない、そうした人間であれば「人間として更生する」ことなど確かに期待できないだろう。
そうした点では、山口県の母子殺害事件は、「死刑にする必要などない」事件だ。被告の行動は人間として理解できるものであり、十分更生の可能性があると思えるからだ。——そういうと、かのお母さんなどは「えええええっ?! 全っっっ然、理解できない! 人間のすることじゃない!!」というのだろうと思う。・・・そうだろうか? 「若い男が、女が欲しくて若い女性のいる家に押し入り、殺して強姦した」というのは、割とわかりやすい犯罪じゃないだろうか。男なら誰しも若い頃、「くっそぉ、女とやりてえよおおお!」と叫んで一晩中もんもんとしたことぐらいあるだろ?「隣の○○ちゃんの部屋に夜中になんとかして忍び込めないか・・」とか真剣に計画を練ったこととかないか? オレはあるぞ。もちろん、実行はしなかったけど。
女とやりたくて我慢できずに強姦する。相手が憎くて我慢できずに殺す。金が欲しくて我慢できなくて強盗をする。物が欲しくて我慢できずに万引きする。——どれも、人間として「よくわかる」犯罪じゃないだろうか。非常に人間らしい、人間の暗い部分、醜い部分がストレートに出た犯罪だろうと思う。誰だって、それと同種のものは、それら犯罪者の何十分の一かは持ち合わせているはずだ。そうした欲望をなんとかコントロールして生活しているのだ。であるならば、その延長上にある人間たちならば、更生する道はあるんじゃないだろうか。そう考えるのは別に不思議でもなんでもないと思うのだが。
死刑廃止論者である僕といえども、そうした点では「理解不能」な犯罪はある。こうしたものには死刑しかないかもしれない、と思うことはある。それは、例えば昨年あった、名古屋刑務所で刑務官が集団で服役囚に消防ホースで放水をしてリンチし殺した事件などだ。あれは、全く理解ができない。刑務官といえば公務員であり、社会的な保証もあり、妻も子もあるよき父親だったりするはずだ。そうした人間が、自分よりはるかに弱く自分に反抗できない立場の人間をただ「暇つぶし」に集団で殺す。これは全く意味が分からない。ところが、この事件については、なぜだか世間的には関心が薄い。「こんなの絶対、死刑だよね!」と妻がいくら叫んだところで、かのお母さんは「そう?」でおしまいだろう。興味ないのだ。殺されたのが子供だったり、残された遺族が涙ながらにテレビで訴えたりすれば別だろうが、殺されたのが刑務所の囚人という時点で「あ、関係ない。どうでもいい。殺されても当然な人たちでしょ」でおしまいなのだ。
なんとなくわかった。——僕や妻は、基本的に「弱いもの、下のもの、虐げられたものが、反射的に世の中のルールをぶちこわそうとする」ということについては、なんとなくわかるのだ。理解できるのだ。逆に、「強いもの、上のもの、虐げる側の人間が、何の益もないのに罪を犯す」というのが全く理解できないらしい。だって、なぜそんなことをする必要があるの? 意味がないでしょ?
・・が。世の多くの人間はそうではないらしい。「弱いもの、下のもの、虐げられたものが、反射的に世の中のルールをぶちこわそうとする」ということについては「そうした人間は自分なんかとは違う世界の人間たちだから理解できないし理解する必要もない」と切って捨てる、それが一般の感覚・・なのだろうか。
ある集団の中での常識が、それより大きな集団での常識と同じとは限らない。我が家での常識が、日本の世間一般の常識とは必ずしも同じとは限らない、そのことを妻はしみじみと感じたようだ。「うちってどうして世間とずれてるんだろうね」と嘆息する妻よ。だがね、更に大きな目で見れば、日本の世間一般の常識が、世界の世間一般の常識と同じとも限らないのだ。今時、「死刑を更に推進しよう」などといってるのは世界の中で日本と米国の一部ぐらいなものだ。
我が家は、日本という「どでかい田舎」に暮らしている都会人なのだよ。遠く離れた都会には、無慮数の同じ考え方の人間がいるのだ。妻よ、どうかそのことだけは忘れないで欲しい。
公開日: 火 - 6月 27, 2006 at 04:18 午後