プチ意識改革
考え方を変えてみる、というチャンスはどんなちっぽけなところであれあるものだね。
飲食に関し、なぜかここ十年以上の間、がんとして変えなかった習慣がある。それは「コーヒーはペーパーフィルターで煎れる」ということ。
僕は、知る人ぞ知る(←うちの親とか)コーヒー愛好家なのである。高校生の頃にコーヒーに目覚め、コーヒーの専門書を読みふけって、サイフォンだのコーヒーメーカーだのを買い込み、コーヒー豆も十数種類ぐらい揃えて自分でブレンドしたりして煎れてみたりしていた。その頃あれこれ試してみた結論が、「もっともおいしいコーヒーの煎れ方はペーパーフィルターである」ということだったのだ。一人暮らしで貧乏していた頃はコーヒーからも遠ざかっていたけれど、ある程度まともに暮らせるようになってからはずっとペーパーフィルター方式のコーヒーメーカーだ。しかも使うのはフィリップス。これも「一番おいしいコーヒーメーカーはフィリップスである」という結論を得ていた(←なぜかはすっかり忘れてる)からだった。
そんなわけで、自分の中では「コーヒー=フィリップスのペーパーフィルター式コーヒーメーカーで煎れる」というのが当然というか常識というか、動かしようのない当たり前の現実として存在していたのだね。これはもう、「コーラといえばコカコーラ」とかいうのと同じぐらいの、疑うということさえ思いつかないぐらいの固定観念化された考えだったのだ。
それが、つい先日。ひょんなことから完璧に壊れてしまったのであります。実はしばらく前からコーヒーメーカーのサーバーのガラスにヒビが入ってしまい、ぼちぼち買い替えないと・・・と考えていたのだけど、新たに購入したのはなんとフィリップスのコーヒーメーカーではなかったのである。いや、そもそもコーヒーメーカーですらない。ペーパーフィルターでさえない。
新たに購入したのは、bodum(ボダム)のフレンチプレスだったのでありました。そう、近所のスターバックスで売ってたのを買ってきたのだ。フレンチプレスというのは、ご存知の人も多いだろうけど、ポットにコーヒー豆とお湯をどばどばっと入れて、金属の濾し網でコーヒー豆を濾していれるやつ。よく紅茶なんかであるでしょ? あれのコーヒー版だね。
信じられないことに、このフレンチプレスで煎れたコーヒーが、おいしい。といっても、ペーパーフィルターのコーヒーと比べたら、おそらく多くの人は「おいしくない」と感じるんじゃないだろうか。なにしろ、金属の荒い網で濾すだけなので、細かなカスなどはそのまま出てきてしまう。最後の一口などは口の中がざらついた感じになるし、飲み終わると豆のカスがカップの底に沈殿していたりする。
だが、飲むとこれがなんともうまいのだね。ただ「うまさ」の質が違う、ということなのだ。——例えていえば、ペーパーフィルターのコーヒーは、きれいに精米したお米を何度も何度も丁寧に研いで炊いたご飯なのだ。それに対し、フレンチプレスのコーヒーは、玄米をざっと荒く研いで炊いたご飯のようなものだろうか。昔ながらの「おいしいご飯」というイメージに近いのは、前者だろう。だが、米という食物の本来の味に近いのは、後者じゃないだろうか。
長い間、人間はさまざまな自然を「人間にあわせて」変形し取り入れてきた。そうして、「どれだけ人間用に改良し修正したか」が「よいもの、すぐれたもの」の基準であると考えていた。だが、それは正しかったのだろうか。ひょっとしたら、自然のままのものに人間の方が歩み寄るべきだったのではないか。そうして得られたものこそが本当の意味で「よいもの、すぐれたもの」なのではないか。
昨今の自然食やスローフードの広がりなどを見ると、「本来の姿を人間の要望にあわせて無理矢理ねじ曲げて作り出したもの」が本当にいいことだったのか?ということへの懐疑が次第に浸透しつつあることを感じる。そうした従来のあり方への疑念を持つ人々は着実に増えている。
・・思えば、フレンチプレスへ変わる遥か前から、我が家の食生活は少しずつ変化していた。パルシステムでハムやソーセージ、野菜などを購入するようになり、何を買うにも保存料や着色料、香料などを気にするようになっていた。これは、娘が安いケーキのクリームで顔に発疹が出て以来、特に気にするようになったのだと思う。
そうした食生活に慣れてくるに従い、僕の「ペーパーフィルター信仰」というのも薄れていったのだろうと思う。本当に、これは一番おいしい煎れ方なのか。実は、トルココーヒーのように「挽いたコーヒーに熱湯を注いだだけ」のほうがおいしいんじゃないか。コーヒー本来の味ではなく、人間の味覚にあわせて調整したものをおいしいと思っていただけではないか。フレンチプレスのコーヒーを飲みながら、僕はそんなことを考えてしまうのだった。
どちらが正解かは、わからない。別に、そんなものは重要ではないのだから。重要なのは、こんなつまらぬちっぽけなことでさえ、意識を変えるきっかけはあるのだな、ということに思い至ったということ。そして、こんなちっぽけなことにさえ、人間はがちがちに既成概念というもので固めて生きているのだ、というのに気がついたということ。
自分の中に当たり前のように存在する既成概念というものは、気づくことさえそんなにも難しい。とりあえず、そのほんのちっぽけな一つだけれど破壊できたことを喜ぶべきなんだろう。
公開日: 火 - 5月 9, 2006 at 04:04 午後