アンティークな日々の始まり



我が家に新しいダイニングテーブルがやってきました。

「椅子が欲しい! テーブルも欲しい!」

・・・と妻が叫び続けること早十年。さすがに結婚し新居を構えながらも無印良品のダイニングテーブルをそのままひたすら使い続けている夫に、「このままでは一生、無印以外のテーブルで食事する日には巡り会えないかも知れない」と思った——かどうか知らないが、ともかくダイニングセットを何とかすべし!という離婚をも辞さない妻の迫力に根負けして、インターネットであちこちのアンティークショップを眺めては手頃なテーブルを物色することになったのが今月の半ば頃だったか。

これが実に不思議な、まさに奇跡とも呼べるような事態を引き起こしたのだ。「テーブルなんて脚が4本あって平たけりゃ十分」と思っていた夫(オレ、オレ)が、英国アンティーク家具にずっっっっっぽりとはまってしまったのだ。思えば、自分が子供の頃、生活の中にあった家具というのはみんな「木」でできたものだったのだよね。それがふと気がつけば、「木」であって木にあらずの「合板」というもので、表面だけやたらときれいな代物が当たり前のように身の回りにあふれるようになってしまった。

見た目はとてもきれいだ、しかし中身は何だかわかりゃしない。そういうものが大キライである。人も物も、たとえおんぼろで傷だらけでも見た目から中身まで本物の方が遥かにマシだ。そりゃ、いきなりすべての家具を買い替えるような度胸も甲斐性もあいにく持ち合わせてはいないが、せめて日頃食事をするダイニングぐらいはちゃんとしたものにしたい——ここに至って、日々の暮らしに対する想像力の欠如した夫はようやく妻の願いを理解したのでありました。

で、なんでアンティークなのか。妻がもともと好きだったというのもあるのだけど、「今のモダンなダイニングセットなんて大枚払って買えるかケッ」というのが正直なところ。こじゃれたデザインに何十万もするダイニングセットを眺めていると、大塚家具が親のカタキに見えてくるから不思議だ。で、最初のうちは妻に強引に「ほらほら」と見せられていたアンティーク家具なのだけど、あれこれとネットを物色しているうちに、どうやらちゃんとした店ならばかなりしっかりしたものが手頃な値段で買えることがわかってきた。

もちろん、ロイズなんぞで全て揃えようと思えば軽〜くン十万は吹っ飛ぶだろうけど、ネットで巡り会った某店(へへーんだ、あんまりいい店で客が殺到すると買えなくなるから教えてやんないもんね)などでは、椅子なら2万前後、テーブルでも5〜10万もあれば十二分に立派なものが手に入ることがわかった。アンティークなら、一度に全部セット品を揃える必要もない。とりあえず椅子の一脚から始めて、少しずつ何年もかけて揃えていくつもりなら十分手頃な物が手に入るはずだ。

というわけで、アンティーク超初心者夫婦は、まず手始めに、おそるおそる1930年代の椅子を購入してみることにした。なにしろ四分の三世紀も前の椅子だ。新品と比べりゃ傷もたくさんあるだろうし多少はきしみもあるだろうな・・などとあれこれ思っていたのだけど、現物が届いてモノを見たらそんな杞憂は吹き飛んでしまった。

なにしろ、いい。木の質感、深いつやと光沢。あちこちに見られる傷や木のかすれ具合も、それだけ使い込まれた物だという歴史が感じられる「味」になっている。なにより、たった一脚の椅子があるだけで、部屋の空気が変わる。座ると、こちらの所作やたたずまいまでが「きりっ」と引き締まって見える。

これはもう、テーブルも買うしかないでしょう! 妻より既に暴走気味になっている夫はめらめらと燃え上がる家計も顧みずテーブルの購入を決意したのであった。ちょうど折悪しく(折良く?)税金の還付金の通知が。「しめた、この金から地方税の分を差し引くと・・・よしよし、買える。買えるぞふはははははは!」

出会いとは恐ろしい。ちょうどその日の夕方、かのアンティークショップにて、すばらしいダイニングテーブルがアップされたのであった。1930年代のドローリーフテーブル。天板をもちあげて拡張できる、英国アンティーグの定番的なもの。脚は、先日購入した椅子とそっくりのねじねじ(ツイスト)。まるで我が家のために生まれたようなテーブルだ。

いくつかツイストのドローリーフテーブルを探して比較したのだけど、これほどまでに「ねじねじ」が美しいものは他になかった。「決めちゃえ、決めちゃえ!」と心の中で悪魔もとい天使が叫ぶ。正気を失った夫は、遂に有り金はたいてそのテーブルを購入したのであった。


・・・・で。
それが本日届いたわけですわ。そしてダイニングに羽を広げて椅子とともに収まったところが冒頭の写真。後ろのホール時計とも割といい感じでなじんでいる。これがまぁ、ため息が出るほどに美しい。天板に見える細かな傷さえ美しい。合板にできた傷というのは1つだけでも「許せん!」と思うのだけど、天然木の傷というのはどうしてこうもいい味わいになるのだろう。

例によってがたつきも全くなく、表面もすべてきれいにメンテナンスされ仕上がっている。とても四分の三世紀の間、人々に使われ続けてきた物には見えない。——考えてみれば、こいつはオレより遥かに長く生きているのだよね。その間、何世代もの家族とともに日々の食事を支え続けてきたのだろう。それが海を越え、遠い東国の家庭にまでやってきたわけだ。なんというか、我が家がこのテーブルを所有したというより、このテーブルの歴史に我が家もちょこっと入れてもらった、という感じさえしてくる。

まだ椅子も一脚だけで、早くも妻は「次はわたしの椅子ね」というギラギラした視線を投げ掛けてくる。さて、次に我が家にやってくる椅子は、いつショップに登場するのだろうか。今から既に次の更新を心待ちにしているのであった。・・・さあ、アンティークな日々の始まりだ。


参考URL;
無名の椅子(http://www.land-air.com/

公開日: 金 - 4月 28, 2006 at 02:15 午後        


©