裁判遅延の波紋


山口県の殺人事件の上告審遅延の問題が波紋を広げている。

どうも開発の仕事が多くなってくるとのんびりブログを書いてる暇がなくなって困る。強制的に書かざるを得ないような状況でないと、なかなか書けないんだよね。というわけで、定期的にコラムを読んでみたい方は、All Aboutの私メがガイドをしている「Javaプログラミング」のメールマガジン(月2回)をどうぞ。毎回、コラムを書いております。と、わざとらしく勧誘してみたりしながら、それはさておき。

しばらく前に報道された裁判のことで、ちょっと書いておきたいな、と思うことがあったのだけど、なかなか手が出ないでいた。今朝の朝日新聞に載っていた読者からの投稿で、そのことを思い出した。——その裁判というのは、1999年に山口県で起こった殺人事件の上告審である。当時23歳だった主婦と11ヶ月の子供を殺害し、強姦した容疑で逮捕されたのは当時18歳のいわゆる年長少年と呼ばれる年齢の未成年者だった。遺族である夫がテレビなどで事件のことを訴えたりしていたから、記憶している人も多いことだろう。

事件は地裁・高裁ともに無期懲役だったが、上告による口頭弁論が最高裁で開かれることになったことで注目を集めた。最高裁では、口頭弁論を開くというのは「判決を見直す可能性が高い」ことを意味する。ということは、「未成年であり更生の可能性を否定できない」として死刑ではなく無期懲役としたそれまでの判決を見直し、死刑となる可能性がでてきたわけだ。

被告側の弁護士は、その最初の口頭弁論の直前に新たに選任された人だ。彼は「十分な準備ができない」として3ヶ月の延期を求めていたが受け入れられず、準備不足および日本弁護士連合会の公務が重なることを理由に出廷拒否をした。裁判官は異例のコメントを出し、検察側および遺族からは強い非難を浴びた。それだけにとどまらず、メディア全般がこの弁護士の行動を「死刑になる可能性があるから裁判を引き延ばし時間稼ぎをしたのだ」ととらえ、裁判および法秩序を乱すようなことを弁護士が行うことを糾弾する論調が多く目につくようになった。新たに選任された弁護士は死刑廃止運動の中心的な存在で、死刑を引き延ばすために裁判進行の妨害を狙ったのだと判断されたわけだ。

今朝、新聞に載っていたのは、今年の春から司法修習生となる若者からの投稿だった。彼は、現在の弁護士に批難を集中する論調に疑問を投げかけていた。直前に選任され、十分な準備ができなかったのは確かなのだ。死刑になるかも知れない重大な事件で準備不足のまま公判に望むのは弁護士として許されない。この弁護士を批難する人は「弁護士が法秩序を乱すようなことをしていいのか」というが、十分な裁判を受けさせずに判決を迎えることこそ法秩序を乱すことではないか。

凶悪犯の人権を軽んじる風潮となりつつあることは果たして正しいのか——その読者が投げかけたのは、まさにこのことだった。こうした見方のできる若者が司法修習生の中にいることに、僕は少しだけ明るいものを感じたのだった。こうした若者が司法の世界に入ってくる、そのことを思うと、日本の未来もあながち暗くはない、そう感じる。

凶悪事件の裁判は多少の問題があってもさっさと進めて早く重い罰を与えるべきだ。凶悪犯の人権は普通の人より軽いのだ。——そうした見方が当たり前のようになりつつあることが僕は怖い。凶悪な事件を起こした人間は更生なんかしない。殺すしかない。そう考える人間が徐々に増えているような気がする。「それが世界の趨勢だ」って? 冗談じゃない、世界は死刑廃止の方向にしっかりと進んでいる。日本だけが(プラス、米国?)死刑推進という時代と逆の方向に進んでいるのだ。

猛烈な非難を受けることを覚悟して、あえてここで書いておこう。——遺族である被害者の夫が、裁判の後、会見を開いて声を荒げて弁護士を批難していた。僕は、この遺族である夫が、どうしても好きになれなかった。何が? 見た目が、しゃべり方が、態度が、そういった問題じゃない。彼が、被告を執拗に死刑にしようとし続けているその姿が、どうしても受け入れられなかったのだ。あえていおう。その姿は、「醜悪」だった。彼を傷つける意図は全くない。ただ、僕にはそう感じられてならない、ということなのだ。それは、彼の姿が、おそらくは彼の妻と子を殺した人間とひどく似通って見えてしまうことが最大の理由ではないかと思う。彼の妻と子を殺した人間とそっくりな人間が、殺された人間の遺族として、今度は彼の妻と子を殺した人間を殺そうとしている。これが醜悪でなくて何だろう。

凶悪犯が成したこと。それは何なのか。——それは、自分の欲望や感情に溺れ、それを抑えることも制御することもせず、欲望や感情の命ずるままに人の命を奪う、そういうことだろうと思う。人は、自分の欲望や感情に流され人の命を奪ってはならない。これは、人として最低限守るべき原則のようなものだと僕は思っている。

奇妙なのは、声高に凶悪犯を批難する多くの人が、そうした凶悪犯と根底の部分では同じ資質の人間であるように見えてしまうことだ。犯人を憎み、決して許さず、死刑を求める。正義という錦の御旗のもとに悪を糾弾する正しい人を演ずる快感に酔い、その快感と憎しみにより犯人を殺そうとする。そうではないのか? 自分の「犯人への憎しみ」という感情を抑え、正義漢づらする心地よさを切り捨て、社会のあるべき姿から合理的な理由により死刑という判決を求める人はそれほどに多いだろうか? 僕にはそうは思えない。「犯人を死刑に!」と叫ぶ人々が行っていること、それはその犯人がしたことと実は大差ないのではないのか?

違いはもちろんある。被告は、少なくとも「罪を犯すリスク」を負って事件を犯したのに対し、死刑を求める側の人間は、罪を犯すリスクを一切負わず、合法的に、自分の手を一切汚さずに人を殺そうとしている、という点だ。人々は、憎むべき相手を国によって殺させることに成功しても、何ら罪には問われない。おそらく、良心も傷まないのだろう。そればかりか、世間からも「立派な人」と思われるのではないか。「敵をうって殺された人間の無念を晴らした、えらい奴だ」と。——断言してもいい、被告を死刑にしたからといって、殺された人間は決して喜びはしない。なぜ? なぜなら、彼らは既に死んでいるのだから。死んだ人間が喜んだりするものか。冷酷なようだが、殺された人間が喜ぶというのは幻想だ。ただ単に、「『殺された人間が喜んでいる』と残された人間が思い自己満足に浸れる」というだけでしかない。

欲望と感情のおもむくままに人を殺した人間を決して許してはならない。そう叫ぶ人の多くが、自ら、欲望と感情のおもむくままに犯人を殺したがっている。なぜ、その奇妙さに人は気づかないのだろう。結局、人は、「自分が許すものは許すが、自分が許さないものは許さない」ということでしか物事を考えられないのだろうか。もしそれが正しいのだとしたら、法とは一体、何なのだ?

ごく一部だが、愛するものを殺された遺族が、その犯人に接見したり手紙をやりとりしたりすることで、罪を犯した人間を理解し、その更生の道を探ろうとする動きもある。彼らの姿を見るとき、僕は「人間の尊厳」という言葉を思い出す。人間とは、なんと崇高なるものか、そう感じることができる。憎しみから犯人をひたすら死刑にしようとする人からは、犯人と同じ醜悪なものしか僕には感じられない。断言してもいい、そんな醜悪なものが、正義なんかであってたまるものか。

どのような人間であれ、「この人は生きる権利がある、この人は生きる権利がない」などと断罪する権利は有さない。特定の人間にそのような権利があると錯覚したとき、人は道を踏み外す。自分にこそはその権利があると思い込んだとき、人は間違うのだ。「あんな凶悪な奴に生きる権利なんかない。みんなそう思ってる」? 生きる権利というのは、多数決で決める代物ではない。誰にもそれを決める権利などないのだ。人は神ではないのだ。

欲望に流されるな。感情に流されるな。それは犯人に対してではない、正義漢づらして犯人を糾弾する自分に対してこそいうべき言葉だ。悪を糾弾する快感に酔いしれているものにいうべき言葉だ。——冷静になって、どうかこの凶悪犯に、正しい裁判を受けさせて欲しい。拙速な、自分たちにとって都合のいい判決を望むのだけはやめて欲しい。人としてのあるべき姿、人間としての尊厳、それは犯人に対してのみならず、犯人を憎む人間に対しても求められるべきものなのだ。

公開日: 火 - 3月 21, 2006 at 11:28 午前        


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