いただきます論争


給食で「いただきます」をいうかいわないか、騒ぎになってるらしい。

毎日新聞にこんなのが載ってた。

「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争

詳細はリンク先を見てもらえばわかるけど、TBSのラジオ番組でこういう投稿があったらしいんだね。

《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》

それについて論争が起こり、飛び火しているようなのだ。「お金を払っているんだから、いただきますなんていう必要はない」という考えに、やれホリエモンのような金がすべての考え方だとか、いや宗教上の理由で手を合わせるのを拒む人だっているはずだとか、いろいろと話が広がってるみたいなんだよね。

これを見て、なんとなく感じたのは、「いただきます」の是非ではなくて、「そんな重箱の隅をつつくようなことまで目くじら立てる時代になったのか」ということだった。・・あ、勘違いされるといけないのであらかじめ断っておく。我が家では、いつも食事のときには「いただきます」と手を合わせております。娘なぞは、機嫌がいいときは一口食べるごとに「いたあきあ〜す」と何度も叫びます。(機嫌が悪いときはいわないけど)だから、「いただきますは普通いうでしょ?」という意見はわかる。わかるんだ、が。

ちょっと検索してつくづくと感じたのは、「いただきますをいうべきか否か」ということより、「いうのが当たり前」という大前提にたち、いわない人、いわせないよう子供を教育する親を糾弾するような人間の何と多いことだろう、ということだった。「そんな親がいるなんて信じられない、何を考えてるんだその親は!」的な、金切り声で叫ぶような発言ばかりがネット上には転がっていた。

もちろん、僕だって、そんなことを学校に本気でいってくる親がいるというのは信じがたいと思う。が、そうは思うが、だからといってそういった親に対し居丈高にご立派な台詞を吐く気にはなれない。「おかしな親がいたもんだな、まぁ世の中広いからな」と思って、終わりだ。そのことが原因で子供がいじめにあったりしたらそれは話は別だけど、少なくとも「そう学校にいってきた親がいた」ということについては、それでおしまいだ。だが、世の中には、「それじゃすませないわよっ!」という人間が山のようにいるらしい。そのことのほうが僕にはショックだ。

「昔はみんな、ちゃんといただきますといったもんだ」という。——僕は知っている。そんなことは全くの嘘だ。昔だって、「いただきます」をいわない人間は山ほどいた。いや、家父長制の強かった時代には、父親だけは「いただきます」も「おいしい、うまい」も「ごちそうさま」も何も言わない。父親以外はいわないと殴られるが父親だけは黙って食べていい、そういう家庭はごまんとあった。

それでも、そのことが別に問題になるようなことはなかった。なぜなら、そんなことはマナーの話であり、それぞれの家のしつけの問題だったからだ。マナーは強制するべきものじゃない。マナーがいいというのは大切だが、だからといって「マナーの悪い人間をみんなでつるし上げ糾弾してもいい」わけではない。

だが、いつの頃からか、マナーやしつけは「きちんとすべきもの、していないのは悪」という時代になってしまった。マナーの悪さを声高に叫び、「ほら、こーんなマナーの悪い人間がいるんですよ!」と批難する、そういう不快なまでに正義感にあふれた人間が巷にあふれるようになってしまった。そうだ、不快なんだ「正義感」というやつは。みんな、わからないのか? 正しいことなんてのは、ひっそりと自分の中だけにしまっておくもんだ、それが「マナー」なんだよ(笑)。決して、声高に自分の正しさを見せびらかすべきものじゃなかったんだ。

僕が怖いのは、そうした風潮にもっと薄暗いものが乗っかって自分たちに都合のいいように操作しようとする空気を感じてしまうからだ。既にどこかの自治体では、「給食の時間にはみんなでいただきますをいう」ということを決めようなんて言い出すところが出てきている。そうして、「学校では必ずいただきます、ごちそうさまをいうよう指導すること。それに反するものは処分する」という時代がやってくるのだ。そして、「いただきます、ごちそうさま」は、いつの間にか「国旗掲揚、国歌斉唱」の仲間となり、「先生には気をつけで挨拶」「号令をかけたら全員整列」「上のものの命令は絶対に従え」「教育勅語復活」というように人々の間を浸食していくのだ。妄想なのか、それは僕の。本当に? そうならない保証は誰がしてくれるんだ?

「いただきます」をいうかいわないか、そんなことは、そもそも論争の種にしてはならないのだ。「どうすべき」などと決めてはならないことなのだ。それぞれの好きに放っておけばいい。そう、「放っておく」というのは、実にすばらしい先人の知恵だったんじゃないか。それを「そんなことは許さない」といきり立ち、「どちらが正しい」と結論づけた瞬間に、それは「正義」となり、人を裁く刀となるのだ。

世の中には「どちらが正しいなどと決着を付けない方がいい」ことだってある。「どっちも正しい」「どっちも間違っている」「正しいこともあるしそうでないこともある」そういういい加減なものですませておく方がよいこともあるのだ。どうかこれ以上、人を裁断する武器をそこいら中にまき散らさないでいただきたい。そうやって武蔵坊弁慶のように山のような「正義の剣」を抱え込んでいたいのかみんな。

「いただきます」をいうべきか否か。それは、「そもそも、そんなことを無駄に考えるな」というのが僕の結論だ。どうでもいいんだそんなことは。そんな、どうでもいいことをあれこれ考えている間に、どうでもよくない本当に考えなければならない問題はひっそりと人々に気づかれることもなく世の中を蚕食していくのだ。

公開日: 木 - 1月 26, 2006 at 11:43 午前        


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