大目に見る


それが「悪」とされる世の中になってしまったんだろうか。

昨年末もすっかりblogとはご無沙汰しておりました。皆さん、お久しぶりですね。とりあえず、正月ぐらいは何か書いておこうね、うん。

しばらく前に書かれたものなんだけど、小説家の渡辺淳一氏が個人でやっているblogの記事が、じわじわと話題になっている。「堅すぎる車掌さん」(これです) というやつなんだけどね。九州で講演をしたときのことだけど、小倉から福岡に戻ってそこから飛行機で帰ろうということで、小倉=福岡の移動に新幹線に乗った。で、自由席の切符しかなかったんだけど、がらがらだったんで指定席に乗っていたら、車掌さんがきてしつこく席の移動を求められた。そりゃ確かにこっちが悪いのはわかるけどさ、もっと融通を利かせたっていいじゃないの。——とまぁ、そういう話なんだけど。

さすが有名人というべきか、この記事のことがじわじわとネットで広まっていって、あちこちで彼の人の言動を批判したり糾弾する(?)書き込みや記事がアップされております。「車掌さんのいったことは正しいことだ。そもそも座りたいなら金を払って指定席やグリーン席のチケットを買えばいいじゃないか。有名人だからなんでも通ると思ってるのか? ぐだぐだぐだぐだ!」ということらしい。

いや、もちろんね。その通りですよ。車掌さんは正しいし、渡辺淳一氏は間違っている。ちゃんとチケットを買うべきです。その通りです。・・・ただね。なんというのかなぁ、この記事を、まるで「正義は我にあり!」といわんばかりに偉そうな態度で糾弾している文章などを見ると、なんともいえない不快な気分になってしまうことも事実なのだよね。

小倉から福岡っていうのは、実際に知っていればわかるけど、本当に「目と鼻の先」程度の距離なんだよね。言い方は悪いが、「こんな短い距離で有料で別に金とるのかよ」と人によっては憤慨するぐらいの距離なのだね。それもあって、氏は悪いと思いつつもつい指定席に座ってたんだと思う。もちろん! それが正しいことではないですよ、悪いことだよほんとほんと。

本人だって、そんなことはわかっているのだよね。ただ・・・人というのは、そういうものなのでないの? 悪いとわかってもついやってしまったり、ちゃんとしないといけないんだけど面倒だったり。「ここから先は良いこと、こっち側は悪いこと」とすっぱり線を引いたように分けて、「ここからこっちは何があろうと金輪際ダメ! 不許可! 許さん!」みんながみんな厳密に考えて生きている、生きなければいけない社会。そういう社会になってしまったのだろうか。

「融通」と、氏がblogでいっているのはそういうことなのだろうと思う。「そりゃあ悪いのはわかっているよ。だけど席はがらがらだし、あとほんの数分で駅に着くのだし。昔なら『しょうがないですねえ、次からはちゃんとチケットを買ってくださいよ』『はい、すいませんね。次から注意しますから』でおしまいだったのに・・・」という思いだったんじゃないだろうか。別に「有名人だからそのぐらいいいだろ」的なことでなくてね、何というのか・・・。

そう。「大目に見る」という感覚だ。その感覚が今の世の中から急速に消えていこうとしている気がするのだね。その昔、善悪というのは「ここからが善、ここからが悪」ではなかったのだ。「だいたいこのへんからが善、だいたいこのへんからは悪」という感じだったのだよね。

電車で無賃乗車した金のない若者も大目玉を食らって見逃してもらえる。子供が万引きをしても、まぁ初めてなら怒鳴りつけて終わりにしてくれる。もちろん、それは「悪いこと」だ。だけどそれらは「大目に見る」ことのできる悪だった。まぁ、このぐらいは大目に見てやろう。それは、「悪いことはどんな小さなことでも全て懲罰する」ということが必ずしもよい結果を生むわけではないことを知っていたからではないか。更にいえば、そういうちょっとした悪いことは、自分だってやってしまうかも知れないのだ、人間なら誰だってそういうことはあるものなんだ、ということをわかっていたからではないか。

くだんのblogへの批判を見ると、「このときはたまたまがらがらだったけど、席がびっしり埋まっていたらそんな理屈は通用しない」というような意見が多数見られた。当たり前だ。「がらがらだった」から「大目に見る」という感覚が通じるのであって、席が埋まっていたら通用しないのは当然。氏だってそんなことはわかった上でいっているはずなのだ。こんなことを、そんな「普遍的な原理」にまで高めようとしてどうする。

暗黙の了解、阿吽の呼吸。そういう「言葉で厳密に定義しているわけじゃないけど、誰もがなんとなく『だいたいこうだね』とわかること」というのがなくなりつつあるのだろうか。すべてのものごとを厳密に定義し、その通りに杓子定規に解釈する。例外は許さない。なぜなら——自分は絶対、裁かれる側には回らないから。回らないに決まっているから。そっち側に回る人間はそもそも悪い人間なのだ。欠陥品なのだ。世の中で無用な連中なのだ。自分はそうではない、だから安心して杓子定規に解釈し、一切の例外を許さないで糾弾していいのだ。・・そういう臭い、空気をあちこちで感じてしまうのは僕だけだろうか。

「じゃあ、悪いことをしても許せっていうのか? どこまでなら許してどこから許さない、その線引きは誰が決めるんだ?」——そういう反論は、その反論そのものが「大目に見る」という感覚を理解していない証左だ。もちろん、世の中には決して許してはならない悪もある。大目に見てはならない悪もある。だが同時に、見逃してもいいだろう悪だってある。そんなことをくだくだと口にして説明しなければならない時代に、どうやらなってしまったのか。


「悪いことはどんな小さなことも許さず罰する。それがいい社会だ」って? ご冗談でしょう? ご存じないかもしれませんがね、世の中では「悪いこと」の中には、本当に「悪いこと」だけでなくて、「弱いこと」というのも含まれていたりするのですよ。多くのちっぽけな罪は、「悪いから犯す」のではなく、「弱いから犯す」ことだったりするのですよ。だからこそ、世の中には「大目に見る」という柔軟なシステムが用意されていたのですよ。それが、間違いとおっしゃる? ご冗談でしょう?

公開日: 水 - 1月 4, 2006 at 01:07 午後        


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