罪を憎んで人を憎まず 


・・が通じない世の中になってきたのだろうか。 

最近、何か事件があるたびに「あ〜、ブログに書かなきゃ」と思ってるんだけど、忙しさにかまけているうちに、そもそも何を書きたかったか忘れてしまう、という好都合じゃなかった悪循環に陥っております。貧乏暇なしスパイラルから脱出せねば。

・・ともかく、最近はいろいろ注目されるような事件が多い。前にブログを書いたのは運転室に子供を乗せた運転士が懲戒解雇になったという事件のことだったけど、その後もときどきこの種の「罪を犯した人間を厳しく処分してハイおしまい」的なニュースを目にする。というか、そういうことがずいぶんと前より増えてきたような気がする。

何か書かなきゃ・・と思うその最大の理由は、こうした事件が起こる度に、多くの人間がその尻馬に乗って罪を犯した人間を糾弾し断罪するような姿が目につくようになったからだ。——ネットを検索すると、犯罪者や問題を起こした人間を徹底的に糾弾するぞオレは、許さないぞオレは、社会から抹殺してやるぞオレは、的なオレはサイトがずいぶんと増えた気がする。つくづくと、住みにくい世の中になった。そう思う。

・・なんというのかなぁ。日本にはね、昔から「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があったと思うのだ。罪を犯したことを反省し償わせることは大切だ、だが「罪を犯した」というそのことをもって、その罰以上の制裁を加えるようなことがあってはならない。そういうことを戒めた言葉だと思うのだね。それが、今はふと気づけば「人を憎んで罪を憎まず」な人が増えている気がする。例の懲戒解雇の運転士にしたところで、「実際に事故やトラブルは起こらなかったからといって、許すことなんてできません。そういうルーズな姿勢がダメなんです。こういう人間を許してはいけないんです。きいいいいいい」てな人が多くなった。実際に罪を犯したかどうかなんてどうでもいい、この「人間」をとにかく罰したいんだ、ということがミエミエの人が。

なあなあまあまあ・・なことへの批判、というのはある。曖昧なまま犯した罪をなんとな〜くうやむやにしてしまう、ということが日本には今まであった。が、これは見方を変えれば「罪を犯した人間の更生」を重視した社会であったことの裏返しではなかったろうか。人間は、罪を犯すのだ。誰だって、何かのきっかけがあれば、間違いや失敗をするのだ。そうした人間に今一度チャンスを与える。そうすることで、本人も、また回りの人間も救われる。そういう感覚が原点にあった気がする。

が、今は多くの人が「失敗した人、間違った人、罪を犯した人」を許さないようになってきつつある。殊に、人の命に関わるようなことは、たとえそれがほんの出来心だったり、つい魔が差してだったりしても「犠牲になった人のことを考えてみなさい! あんたなんか社会から抹殺されるべきよ! きいいいいい」というのが当然のようになりつつある。

なぜそうなってしまったのだろう。僕は、その最大の要因が「想像力の欠如」にある、と思っていた。自分が陶酔できる、自分に取って都合のいい立場には容易に想像が及ぶが、自分に取って不快な立場のことは「私には想像もできません!」と切り捨てる。そういう人間が増えたからではないか、と思っていた。

だが、どうもそれだけでは理由としては弱い気がする。もっと根本的な部分での変化が何かあるのかも知れない。・・そこで、ふと思ったのだ。多くの人が、「自分と同じレベルの人間だけしか知らずに成長するようになった」からではないのか。成績も、経済力も、社会的地位も、教養も、「だいたい自分と同じぐらい」の人ばかりとしか、みんなつきあわなくなってきている。だから、「自分とだいたい同じ」以外の人間がいることなど考えないし、そんな人間は自分とは無縁の連中なのだ、と無意識に思っている。そういうことじゃないだろうか。

自分以外は、みんな自分とは違う人間なのだ。——それは、昔は当然の理だった。今では「誰もがみんな、自分と同じような人間なのだ」ということを真理とする人間たちが増えたのだろうか。・・・あちこちで報道される、一件些細な事件をみるにつけ、そうしたことを僕は考えてしまうのだ。


世の中は、自分とは全く違う人間によって成り立っている。そのことに、君はなぜ気づかないの? 

公開日: 金 - 11月 25, 2005 at 06:59 午後        


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