元郵政反対派の皆さん 


・・手のひらを返したように法案に賛成。それは悪いことなの? 

かの郵政法案が、本日、圧倒的な差で衆議院を通過したようだ。既に参議院でも多くの元反対派が賛成に回るといっているし、法案成立は確実らしい。個人的には、現行の法案には賛成しがたい部分もあるけれど、ともかくこれは一歩・・いや、半歩ぐらいは確かに前進したのだろう。

今回の法案に関し、もっとも一般市民の間で問題となったのは——それは内容ではなく、かの「反対派」の人たちの挙動だったと思う。あれだけ威勢の良かった国会議員たちが、解散総選挙で自民党が圧倒的な勝利をおさめると、手のひらを返したかのように賛成に回る。「さいて〜」「プライドねーのかおまーら」「カッコわる〜」と巷ではすこぶる彼らの評判は悪い。

ただね。ちょっとばかり僕は彼らがかわいそうに(ほんっと、ほんっっのちょっとばかり、ね)思うのだよね。彼らが間違っていたから責められるというならそれはしょうがない。だがそうではないのだ。みんなが彼らを責める理由、それは「簡単に意見を変えたから」なのだ。お前には信念がないのか、どのツラ下げてそれまで反対していた意見を支持できるんだ、そういう辛辣な声がどっと彼らを襲っている。

なぜ、意見を変えてはいけないのだ? なぜ、間違いに気づき意見を変えることより、間違った考えを持ち続ける方が立派だといわれるのだ? そもそも、彼らは国会議員である。国民の代表であり、国民の声を代弁するべき人たちなのだ。それが選挙により「なるほど、多くの国民は自分とは異なる意見を支持しているのだ」とわかったから自分の意見を変える——それはそんなに悪いことなのか。多くの有権者の声を無視して反対し続けることの方が正しいというのか。

日本では、「信念」というものを持った人間がとても立派であると思われている。と、思われている。・・え?「今、何ていった?」って? つまりね、「信念を持った人間が立派だと思われる」という錯覚が世の中を覆っている、ってことさ。そう、錯覚。なぜなら、実際には信念を持っていても立派と思われなかったり、信念を持っている「ふり」をしているだけなのに立派と思われる人がごまんといるからさ。

立派と思われるためには、「みんなが立派と思える信念」を用意しないといけない。その信念が「我々にわかりやすい形で見えるもの」でないと、誰も立派とは思わないのさ。「信念を持ち続ける立派な人」というのは、実はその程度のものなのさ。

「郵政民営化反対」——これは、「わかりやすい信念」だ。だから、これを支持し続ける人は立派だと思われる。たとえそれが間違っていたとしても。だけど、例えば「自分を殺し、常に有権者の代表として人々の声を国会に届ける」という信念を持っていた人はどうだろう。これは、「見えない信念」だ。具体的な形として「なるほど、こういうことか」というのがわかりにくい信念だ。だから、信念を貫き、自分の意見が多くの人々と異なっていると気づいた瞬間に意見を変えると「こいつは信念がない」と判断されてしまう。どんなに彼が自分の信念を貫いても、その信念は決して理解されはしない。

僕らは、本来ならばモノや言葉などで具体的な形で示すことのできないはずのものであっても、それを「誰もがわかるような形」に変換して評価しようとする。「信念」なんてものは、本当は自分以外の人間には決して本質的に理解できないもののはずだ。だが人々はそれを「郵政反対」というようなとてもわかりやすい形に勝手に変換し、勝手に理解する。その人の「本当の信念」を置き去りにして。——信念、愛情、信用。みんなどこかしらそういう「自分勝手に相手を理解する」ことで自分を納得させようとする。そういうところが僕らには確かにある。

確かに、手のひらを返したように考えを変えて賛成に回る議員の姿は情けなく見苦しい。だが、どんなにみっともなく恥ずかしいことであろうと、間違った意見に執着し続けるよりは遥かにマシだ。僕はそう思うのだ。非難囂々の変節議員さんたち、どうか今後の活動でそれを証明してください。少なくとも僕は(ほんのちょっとだけ)期待しています。 

公開日: 火 - 10月 11, 2005 at 06:27 午後        


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