女王の教室 


最終回が終わりました。これだけ物議をかもしたドラマは近年なかったかもね。 

久々に書くネタが、テレビのドラマかいっ! といわれそうだけど、事実自分でもそう思ったりするけど、この週末、かなり腹が立つことが多かったので書く。

「女王の教室」、終わった。これは近年稀に見るよいドラマだったと思う。というと、アンチ女王の教室派の人からどっと反論がくるだろうけど、その時点でこのドラマが名作であることを証明しているといえる。——前に、「良いコラムとは?」ということについて書いたことがあったんだけどね。「良いコラム」とは、すべての人が「すばらしい!」といってくれるコラム、ではない。それは単に人々の尻馬に乗ってよいしょをしているだけであり優れたコラムとは全くいえない。といって、すべての人がクソミソにけなすようなものは、やっぱり誰にも受け入れられないのだから良いコラムとはいえない。

優れたコラムとは、「賛成」と「反対」の両方からどっと声があがる、そういうコラムであると思う。どんなことであれ、すべての人が100%賛成や反対するような意見は、必ずどこかが間違っていると僕は思うのだ。——ドラマもそうだろう。すべての人が「すばらしい!」と絶賛するドラマが果たして本当に良いドラマか? そう考えるなら、少なくとも「女王の教室」は、これだけ多くの人から賛否両論が飛び出したというだけでも立派な作品であったと僕は思うのだ。

ただね。反対意見の人の多くが、ただ先生のとった行動や生徒にいった台詞などをとりあげ、「教師としてあるまじきなんたらかんたら」というようなことばかりを口にするのが僕は気にいらない。僕が思うに、そんなことは些末なことだ。であるのに「これはいじめです、体罰です! こんな教師を理想の教師であるかのように視聴者に見せるなんて、きいいいいいいいいい」みたいなことを叫ぶ人がたくさんいる。それをもって、このドラマを全否定しようとする。

ドラマなんだから、極端なキャラクタ設定をしたりするのはアリだろう。架空の話なんだから。そうやって極端な状況を描くことで、視聴者に何を伝えようとしたのか、ということじゃないのか? 阿久津先生は、確かに極端なキャラクタ設定だ。だが、彼女が口にする言葉は、極端ではあれ間違いではない。

ドラマが始まって間もない頃に、こんな名台詞がある。ちょっと長いが引用しよう。

愚か者や怠け者は差別と不公平に苦しむ。賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て豊かな人生を送ることができる。それが社会というものです。あなたたちは、この世で、人もうらやむような幸せな暮らしができる人が何パーセントいるか知ってる? たったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの。

あなたたちは、もう有名私立小学校に通う生徒たちからずっと遅れをとっているんです。イメージできる? 彼らはこうしている間にも、あなたたちが経験したことのないような裕福な生活をし、決して手に出来ないような特権やサービスを受けているんです。病気になれば、順番を待たずに一流の大学病院の診察を受けることができるし、朝から並ばなければ手に出来ないようなゲームだって簡単に手に入る。ディズニーランドだって、特別の出入り口から入って、人気のアトラクションだって並ばずに乗ることができるんです。

日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる? 今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら上司の言うことを大人しく聞いて、戦争が始まったら真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。

これを「6年生の子供にそんな社会の醜いことを教えることないじゃない!」という人間は、この問いから逃げている。これは、6年の生徒に向けられた言葉じゃない。これは、このドラマを見ているすべての人間に対して発せられた言葉だ。——この言葉に答えるだけのものを、僕は、あなたは、果たしてもっているか。

かつて、世の中には「メッセージソング」と呼ばれる歌があった。すべての歌が愛だの恋だののことばかり歌っている昨今とは違い、昔は「歌で世界を変えられる」と本気で信じていた歌い手がいた。ドラマや映画にもそうしたものがたくさんあった。「女王の教室」は、そうした「メッセージドラマ」の一つである。ドラマというスタイルを通して、今の社会は、日本は、家庭は、教育は、果たしてこれでいいのか?という強烈な問いを見る側に叩き付けたのだ。

であるのに、だ。そこから発せられる制作者たちの魂のメッセージを受け取ろうともせず、やれこの描写はいじめだの教育的に問題があるだのと枝葉に首を突っ込むことしかしない人間がこんなにも多いのはどういうわけか。なぜ、考えようとしないのだ? なぜ、その問いから逃げるのだ? これは、登場人物の誰と誰がくっついたの別れたの死んだの殺されたの、いろいろあってハイめでたしめでたしといった、どーでもいいドラマとは違うのだ。反論するなら、彼らが提起した問いにこそ答えないでどーする。

阿久津先生が発する厳しい現実の言葉、それは毎回、僕の胸をえぐった。否定したいが否定できない、なにより「自分はそうしたことを知り理解できる人間でありながら、今までそのことについて気づかず考えない振りをして生きてきたのだ」ということが一つ一つの台詞の傷を更に大きくした。阿久津先生の冷たい目は、今も僕をじっと見据えている。「なぜ、あなたは考えようとしないのか?」と。

番組の賛否など実はどうでもいいことなのかも知れない。今までもそしてこれからも、やれ賛成だやれ反対だと金切り声で叫ぶ人々はいるだろう。ただ自分の感情を主張と錯覚して叫ぶことしかできない人間など放っておけばいい。叫ぶことを止め考えることを始めたとき、初めてこのドラマの意義がわかるのだ。考えない人間に世の中の本当のことなどわかるものか。 

公開日: 月 - 9月 19, 2005 at 06:01 午後        


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