長所であるか、欠点であるか


同じ性格や性質であっても、とらえる人によって長所となったり欠点となったりするんだよね。

日曜日だし、今日は昼間っから(っていっても夕方からだけど)ビールを呑みながら、南條範夫さんの「武家盛衰記」を読んでる。これはだいぶ前に読んだはずなんだけど、あらかた忘れてしまってるので、また新刊の気分で読めるのだ。僕の本の読み方ってのは、とにかく「だあああああっ」と一気に最後まで読んでしまって、「ああ面白かった」でおしまい、そして1週間後には読んだ内容などほとんど忘れてるという、賽の河原で石を積むような読み方である。少しも実にならないという欠点はあるものの、「何度でも新刊気分が味わえる」という長所もある。(・・って、これは本題とは関係ないんだけど)

で。こいつを読んでいると、前には気づかなかった、ちょっと面白い記述に出くわして「はっ」としたんだよね。——藤堂高虎という戦国から江戸初期にかけての武将の章だったんだけど、そこで彼のことをこう記している。

「高虎という人物、主の心をとることも巧み、同僚の心をつかむこともうまく、家臣の心をひきつけることも上手だったらしい。人心収攬は将たるものに必須の条件である」

べた褒めといってよい。将として必要な能力、才能を十二分に持った人間である、という非常に高い評価を高虎にしている。これだけ読めば、高虎に対してかなり好意的な見方をしているんだな、と想像がつく。ところがその後に、南條さんはこう続けている。

「彼も亦、怜悧な戦国武将の一人であったといってよいであろう」

怜悧ってことは「頭の働きがすぐれて賢い」ということだ。南條さんは「主の心をとることも巧み」「同僚の心をつかむこともうまく」「家臣の心をひきつけることも上手」というのを「頭がいい、賢い」という形で評価しているのだね。決して、「情に厚い」とか「思いやりのある」とか「誠実」というような評価ではなく「さすがに頭がいいねこいつは」という判断。この部分で、ふーむとちょっと考えてしまった。

そうなのだ。上司に信頼され、同僚も「あいつはいいやつだ」といい、部下の信頼も厚い、ともなれば、僕らはなんとなく「いい人」なんだという見方をするものだ。決して「頭がいいな」という見方はしないんじゃないか。だが、これは見方を変えれば「人の心をどうすれば引きつけられるかを知っており、それを正確に行動し自分の利益につなげることができる人間」である、ということになる。——戦国武将というのは、要するに敵と殺し合いをし、勝つために自分の配下を死地に放り込むことを平気で命令できる人間である、ということだ。戦争を商売にする人間であり、人間を使って殺し合いをし、自分の勢力を拡大するために生きていた人間なのだ。そこのところを忘れてしまうと大きく見方を誤るのではないか。

古代の中国の名将軍に「呉起」という人間がいる。彼は非常に部下を大切にすることで有名だったそうだ。あるとき、部下の一人の躰にできものができて苦しんでいたのを見て、将軍である呉起は一兵卒に過ぎないその男のもとにいき、自ら膿を口で吸い出してやったという。——こういう話を聞けば、多くの人は「なんて立派な」「なんていい話だ」とか思ってしまったりする。だが、この話を聞いた、その兵卒の母親は泣いて叫んだという。大将軍にこんな恩を受ければ、息子は感激して勇敢に戦うだろう。そして、息子は死ぬに違いない、と。そして事実、その兵卒は勇敢に戦い、死んだ。果たして、この呉起という将軍は「情に厚い、立派な人物」だったろうか。この母親の叫びこそが、実は真実を言い当てていたのではないか。

同じ性格、同じ性質であっても、それは立場や見方を変えれば全く違った評価となり得る。高虎は確かに人間的に優れた人物だったろう。だがその能力は自分と、自分が仕える徳川家のためにのみ活かされていたわけだ。同じ時代、例えば高山右近という戦国武将は、洗礼を受けてキリシタンとなり、キリシタンを守るために戦った。そしてキリスト教が禁教となり弾圧が始まると、大名の座を惜しげもなく捨て、一人のキリスト教信者として多くのキリシタンとともに日本を離れマニラへと旅立ち、そこで死ぬ。高虎は、領民を守るために大名の座を惜しげもなく投げ捨てて一平民に戻ったりできたか?といえば、どう考えてもそれはあり得ないだろう。彼の有能さは、あくまで「武将として」のものであり、「人間として」立派だったというのとは別なんだよね。

ここで「どちらが立派か」を問うつもりはない。というより、人間の性質なんてものは、その人間の置かれた立場、時代、環境によって、同じものでも長所となったり欠点となったりするのだよねきっと。——どのようなことであれ、それを「手放しで万歳」と讃えるようなことがあったら、このことを思い出すべきだな、と思ったりしたのでした。ある人のことを、すべての人間が絶賛したり、すべての人間がこき下ろすようなときには、必ず「それとは別の見方」の存在が忘れ去られているのかも知れない。そういう部分にこそ、目を向けられるようにありたいものだね。

公開日: 日 - 11月 21, 2004 at 07:01 午後        


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