日本人として誇りに思うな


同じ日本人として誇りに思うというのは、どういう意味なんだろう?

イチローが262本でシーズンを終えましたね。で、今朝のニュースで、細田長官だったと思うけど、その件について「日本人として誇りに思う」ということをいっておりました。たぶん、同じようなことを思ったりいったりした人というのは日本中で数限りなくいるんだろうと思う。

この「日本人として誇りに思う」というのが、僕はどうもうまく呑み込めない。これは、別に取り立てて特別な言葉でもないし、ごく普通の人のごく普通の感覚なのだろうと思う。僕も、今まで数限りなくこういうことを思わず口走ったりしたことがあったような気がする。けれど、改めてこの言葉を耳にすると、どうも気持ち悪い感じがしてならないのだ。

これは、例えば「郷土の誇り」とかいったものに置き換わっても、やっぱり同じ感覚を覚えるようだ。「長嶋茂雄は千葉県の誇りだ」みたいなやつね。なんでだろう、といろいろ考えるうちに、これは「自分とは全く関係のないことを、まるで自分が何か関係があるかのようにして誇っている」ような感覚が気持ち悪いのだろう、と気がついた。

「同じ日本人」というだけで、イチローと自分とは何一つ関係はない。イチローが成功したのは自分のおかげであるということは全くない。要するに、イチローと自分は、何一つ接点などないのだ。全く自分とは関係ない人のことを「同じ日本人である」というだけで、なぜ誇りに思えるのだろう? イチローを「立派だ」「すごい」と讃えるのはわかる、だがなぜ「イチローとは無関係の自分が彼を誇りに思う」のだ? そもそも、あんたはなんだってそんな自分が日本人を代表してるようなことを平気でいえるのだ?

例えば、子供が立派な人間に育てば「息子は我が家の誇りだ」とかいったりする。これはわかる。自分や自分達家族と苦楽を共にしてきて彼は立派な人間に育った、それはその家族みんなが誇りにすればいい。彼らにはそれだけの権利があるだろう。だが、「同じ日本人である」というだけの人間をなんだって全く関係のない人間が、「自分の誇り」にできるのだろう。僕にはそれがよくわからない。

そして。イチローのことを「日本人として誇りに思う」といった細田長官の意見には、「ほら見ろ、日本人にはこんなに立派な人間がいるんだぞ」という驕りのようなものが見えるような気がする。なんというか「民族優生主義」みたいな臭いを嗅ぎ取ってしまうのだ。「ほら見ろ、日本人というのは他の民族よりこんなに優れているんだ」的な。イチローが大リーグで快挙を成し遂げた、それを「日本人がこんなにすごいことをした」というように置き換えて考える。それは、後ほんのちょっとした力で「日本人だからこんなにすごいことができたんだ」「日本人はそんなに優れているんだ」というような見方に変化し得る。

イチローは、「日本人だから」大記録を打ち立てたわけではない。おそらく、彼がフランス人であっても韓国人であっても同じ境遇、同じ環境にあれば同じように立派な仕事をなし得ただろう。彼が成功したのは、彼が日本人だからでは断じてない。——であるのに、彼の偉業を讃えるのになぜ「日本人として・・」という言葉がつけられるのだろう。そこが、僕はどうも受け入れ難いのだ。

彼は、「イチローという一個人として」立派な偉業を成した。彼が日本人であるとか、どこの出身であるとか、どの学校を出たとか、そんなことは彼の成したこととは全くの無関係である。そこに無理矢理何らかの関係を見いだして自分の属する社会の誇りとしようという感覚には、なんというか「この偉業を自分達にとって最大限有利に活用しよう」的ないやらしさを感じる。

どうしても「誇りに思いたい」という人。「同じ人間として誇りに思う」というのはどうだろう? ただ「自分にとって誇りにしたい」というなら、別に「日本人として」である必要なんてないでしょ? 「人間として」で十分じゃない。「それじゃ物足りない」というなら、それは心のどこかで、単なる「誇り」以上の何かを求めている証拠なのだ。


追伸。
これを読んだ嫁が、「自分なら、『同じ日本人として』じゃなくて、『同じ日本人なのに』って思う」といっていた。なるほど。「同じ日本人なのに、彼はこんなにすごいことをした」という感覚、それは確かにわかる。それはすなわち「同じスタートラインから出発したのに、自分などにはとてもできないような立派なことを成し遂げた」ことへの素直な賞賛なのだろう。「として」と「なのに」。たった一語の違いなのに、ずいぶんと伝えられる思いは違うものだな。

公開日: 月 - 10月 4, 2004 at 10:32 午後        


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