実るほど


他人から発せられては意味を持たない言葉ってある。

お昼に嫁と話をしていたときのこと。なにかの話題(多分、舛添要一はなんであんなに偉そうなんだ、とかいった話だったと思う)のときに、「実るほど・・」のことわざ(??俳句??川柳??)の話が出た。そのときに、嫁が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といったので、なんか妙な感じがしたのだ。

——僕の頭の中には、「実るほど頭の垂るる稲穂かな」とインプットされてたんだよね。これは昔からある言葉という思い込みがあったので、「頭を垂れる」では表現が新しすぎる。それで「頭の垂るる」と自然に考えてたんだろう。で、「あれ? どっちが正しいんだっけ?」と出典を検索してみたんだけど。

結果。「頭を垂れる」が圧倒的に多く、「頭の垂るる」は1件しか出てこなかった。ってことは、これは「頭を垂れる」が世間一般で使われているのだろう。面白いのは、その正確な出典というのが結局見つからなかったこと。「古いことわざ」としか出てこないのだ。これが俳句などのように作者のはっきりしたものなら正確なものが伝わるだろうけど、ことわざだと時代によって言い回しなどは変化する。だから、あるいは昔は「頭の垂るる」だったけど今は「頭を垂れる」なのかも知れない。

それにしても、面白いなあとつくづく思ったのは、これを公の場所で大っぴらに口にする人に限って、「頭が全く垂れてない」のは何故なんだろう、ということでありました。そうなんだよ、例えば大勢を集めて偉そうに訓話したり、テレビで偉そうに説教したりする人間ほど、こうした言葉を使いたがるんだよね。実際に「頭を低く垂れている人間」というのは、こうした言葉を他人に向けて使ったりはしないものなのだ。

——考えてみれば、この種の言葉は、他人に対していうべきものではなく、自分に対していうべきものなんだよね。そう、これは「自戒の言葉」なのだ。それを他人に対して告げた途端、そこに含まれるものは変質してしまう。そういう言葉っていうのは、けっこういろいろとある。古くからのことわざの多くは、こうした「自分自身に向けていうべき言葉」だったりする。

思うに、現代人ってやつは、この種の「自戒の言葉」を失いつつあるような気がする。すべての批評・批判は他人に対して向けるべきもので、自分に対しては常に自身を守り傷を和らげる言葉しか向けない、そうなってきてる感じがする。——他人から向けられた「自戒の言葉」は、だから決して相手の内には届かない。この種の言葉は、自らに対して発せられなければ意味を持たない言葉なのだから。(だいたい、他人から「自戒しろ」といわれて素直に自戒できるような人間は、そもそも他人にそんなことをいわれたりしないだろう?)

世の中は、他人に対する批評批判で満ちあふれている。そして他人に対しより舌鋒鋭く追求する人間が、なんとなく立派そうに偉そうに見えたりする。日本という国は、そういう国になってしまった気がする。その昔、日本人の美意識というのは「自らに厳しい人間」を良しとするものだったはずだ。他人には寛容に、そして自らには厳格に。それが立派な人間のお手本だった。いつの頃から、それが正反対のものに変わってしまったのだろう。

自戒の言葉を他者に向けて得意となる人間ばかりの世の中になってしまったんだろうか。厭だ厭だ。——だが、考えてみれば自分もその「厭な世の中」を構成する一員なのだ。自分以外の他者がこの社会を作っているかのように他人ばかりを追究するのでは、他人に向けて偉そうに「実るほど・・」と説教たれる人間と一緒じゃないか。いかんいかん。この「厭な世の中」を作ってしまった責任の一端は自分にもあるのだ、ということをたまには「自戒」しておかないとね。

公開日: 水 - 10月 20, 2004 at 01:19 午後        


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