再審開始


・・僕が生まれる前に起こった殺人事件の裁判が、再び始まる。

「名張毒ぶどう酒事件」の再審開始が決まった。これはなんと、僕が生まれる前の事件。それが今になって、「ひょっとしたら間違ってたかも」と再び裁判をやり直すことが決まったのだ。なんといえばいいのだろう。死刑が確定され死刑囚としていつ殺されるかわからない四十数年を過ごしてきた被告。そして、彼が犯人だと信じて四十数年を過ごしてきた被害者の遺族。更にいえば、四十数年前に被告を犯人と断定し逮捕し尋問し判決を下した、この事件の関係者たち。——果たして、誰が本当の被害者だったのか。あまりに考えることが多過ぎて僕にはなんともわからない。

日本では、再審請求は「駱駝を針の穴に通すようなもの」といわれた。ぶっちゃけていえば「あり得ない、できっこない」ということだ。80年代になってずいぶんと緩和されたが、それでもこれでわずかに5件だ。それまでの4件はいずれも無罪となっている。要するに、「これは有罪ではないぞ」ということが明確にわかるものだけが再審開始となるのだろう。ということは、この事件も(従来の例から考えれば)ほぼ無罪の判決が出るような気がする。ちょっと再審開始の要点を見てみよう。

・前に有罪(死刑)の判決が決まったときの決め手
1.毒物を入れた葡萄酒は、公民館の中でその瓶の王冠が見つかったので、そこで開けてから毒を入れたとしか思えない。それができたのは、その時間に現場にいた被告だけだった。
2.発見された王冠には傷のようなものがあって、これは歯で開けたものと考えられる。被告が「歯で栓をあけた」と自供しているのと合致する。
3.使用された毒物はニッカリンTというもので、これは被告が所持していた。
4.2の自供内容など、事件の状況と自供の内容が一致しており自白は信用できる。

・今回の再審決定の決め手
1.公民館で見つかった王冠は、そもそも毒物がはいった葡萄酒のものではない可能性がある。それよりずっと前に開けた別の葡萄酒の栓がそのへんに転がってたのを間違えたのかも知れない。
2.また、葡萄酒の栓は、実はわからないように栓を開けてまた戻すこともできることがわかった。ってことは、公民館に運ばれるずっと前に毒物を入れられたことがわかってしまった。
3.王冠の傷は、栓抜きを使ってつくことがわかってしまった。歯で開けたわけじゃない。
4.使用された毒物はニッカリンTじゃないみたい。
5.以上、1も2も3も4も間違いだったらしいのに、自白はこの間違った考え通りにきちんとされている。ってことは、どう考えても警察が考えたシナリオ通りに自供させられたとしか思えない。

両者を比較すると、ほんと、背筋が寒くなってくる。「全然違うじゃねーかよ!」という感じだ。こんなものをよくまぁ有罪として死刑判決を出したものだ。——もっとも、当時の裁判官を非難するのは筋違いかも知れない。王冠の傷の鑑定や、使用された毒物の鑑定などは、当時の鑑定技術では難しかったのかも知れない。技術の発達で、それまで信じられていた鑑定結果が間違っていたことがわかった、ということなんだろう。

それにしても、だ。僕らはなんとなく裁判というのは正しいものだと漠然と信じている。警察が捕まえ、検察が証拠や自白を吟味し、それを何年もかけて複数の裁判官が調べ上げて判決を下す。それを3回も行なうのだ。ちょっとした勘違いや間違いは途中で発見されるんだろう、という感じで見ているのだと思う。が、「証拠品の王冠は、ひょっとしたら別の瓶のやつだったかも」なんて「おいおいお前、そのぐらいちゃんと調べてねーのかよ?」というレベルのものまでがするすると3回の裁判を通り抜け死刑判決につながってしまっていたのだ。裁判なんてのは、そんなもんなのか? そういう疑問を思った人はきっと多いはずだ。

この5件の再審は、「果たして、死刑という制度は本当に続けるべきか」ということに重要な問いかけをしている。本当に、よくまぁ今まで執行されずに生き残っていられたものだ、と嘆息するぐらいに長い時間をかけてようやく勝ち取った再審だ。どうか今度こそ、しっかりと調べて欲しい。そして、これを契機に、また「死刑廃止」の気運が高まってくれることを願うばかりだ。

「間違いだったといっても、たった5件じゃないか」などと考えないで欲しい。5件で、5人の命が消えるところだったのだ。更にいえば、これは「まず無罪だろうということがはっきりわかって再審が開始された」件数に過ぎない。実は無罪なのだけど明確な証拠がないために再審が認められないという例は、この数倍、数十倍はあるんじゃないか。更に更にいえば、諦めて死刑を受け入れてしまった人間も多数いたのではないか。

日本では、再審そのものは勿論、再審請求を出すことさえ非常に困難だという。再審請求が出されると、その死刑囚は面会や手紙など外部との交通を禁止されてしまうことが多かったのだ。これは、再審請求をした死刑囚への見せしめの意味と、外部との交通を遮断することで死刑囚を孤立させ、支援が続かないようにさせるためだという。——いつ死刑になるかわからない中で、そんな状況になったら、刑務所の職員や看守のいいなりになって、人生最後の日々を静かに過ごしたいと思うことはあるはずだ。というより、そう思うしかない状況を回りは作り上げているのだ。そんな中で、「ほぼ不可能」といわれる再審請求をし続けることができる人間など、ほとんどいないのではないか。

「冤罪は昔の話だ。今はそんなことはない」と多くの人が思う。そして、多くの人がそう思うようになったときに、おそらく再び冤罪は起こるのだ。間違いは常に「絶対に間違いない」と誰しもが思うようになったときにこそ起こる。多くの人間が死刑容認に傾き、おかみのいうことを何も疑問に思うことなく信ずるようになれば、間違いは必ず再び起こる。忘れてはならないのは、そのとき、おそらく僕らは、それが間違いであるとは気づかないだろうということだ。

そして。今この瞬間にも、どこかで間違いは起こっているだろうことも、僕らには決してわからないのだ。

公開日: 火 - 4月 5, 2005 at 07:11 午後        


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