死刑の是非


死刑存続賛成が増え続けているらしい。なんてこった。

あちこちの新聞等で報道されているので既に見た人も多いだろうけど、内閣府の調査で、「死刑を容認」する人が過去最高の81%に達した、という結果が発表になっていた。反対に「どんな場合でも死刑は廃止すべき」という意見は6%にまで減少している。なるほどなぁ・・。なんとなく、そういう空気のようなものは感じていたのだけど、ここまで死刑容認に世の中が傾いていたとは。死刑反対である僕にとってはそれなりにショックだった。

現在、世界の中の半分以上の国が既に死刑を廃止している。アムネスティにある2004年11現在のレポートによると、死刑廃止の状況はだいたい以下のようになっているそうだ。

あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国:81カ国
通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国:14カ国
事実上の死刑廃止国:23カ国
法律上、事実上の死刑廃止国の合計:118カ国

存置国:78カ国

「事実上の死刑廃止国」ってのがわからないけど、これは制度としては残っているけど、10年以上死刑の執行がなく、政策的に死刑を執行しないようになっている国ね。それから「通常の犯罪に対してのみ」っていうのは、例えば戦争のときの軍法下での犯罪(いわゆる戦争犯罪)のように特殊な状況でのみ存続していて、日本における「刑事犯(刑法の罰として)」の死刑は廃止してる、ってこと。——で、日本は、最後の「存置国」になる。いわゆる先進国では、存置国は日本と米国ぐらいになってる。世界の情勢から見ると、日本はかなり「遅れてる国」なんだよね。

なぜ、日本ではこんなにも多くの人が死刑存続を願うのか。死刑をなくしたくないと思うのか。そのもっとも大きな理由は、おそらく「犯罪抑止」ということなんだろう。「死刑になるかも知れない」というのが凶悪犯罪の抑止につながると、多くの人は信じているのだろう。——そうなんだろうか。実際問題として、死刑に犯罪の抑止効果があるということはまったくわからない。死刑を廃止した国や州などで廃止前と廃止後で凶悪犯罪の発生率が変わった、という例はほとんどないようだし、死刑を廃止した国のほうが凶悪犯罪が多いか?というと、どうもそういう調査結果はまったくないらしいのだ。

逆に、最近の日本の凶悪犯罪を見ていると、どうも「死刑が犯罪を誘発している」例がけっこう増えているような気がする。例えば、池田小の宅間守とか。他にも、「死にたいけど自分では死ねないので、死刑にしてもらおうと思って」事件を起こした例というのは思った以上に多い。もちろん、そういうのはレアケースだろう。だけど、だいたい「人を殺す」とかそういう「死刑になるような凶悪なこと」をやろうってのに、「死刑が恐いからやめる」なんてことがあるんだろうか。それが僕にはわからない。そんな奴は、たとえ死刑がなくてもそれだけの大罪を犯す肝っ玉なんかねーだろ。

似たようなことをよくいわれるものとして「少年犯罪」というのがある。少年は保護されていて罪に問われない、それが少年の犯罪に結びついている。もっと厳しくすれば少年犯罪は減るんだ。——といわれて少年法が改正されて、より厳しくなった。では、それで少しは少年犯罪が減ったか?というと、逆に増えてる。死刑もそうだけど、こういう「より厳罰にすれば犯罪が減る」というのはどこまで信憑性があるのだろう。そういうケースもあるのだろうけど、すべてにおいてその考えが通用するとは思えないのだ。

では、何が原因なのか。「治安に対する不安が死刑容認に結びついた」という見解を示している新聞もあったけど、そうなんだろうか。僕は、ここで一つの奇論を吐いてみたい。妄想みたいなもんなんで信じちゃいけない。と、断った上でいってみる。

死刑容認が増えた理由。それは「リアリティの欠如」ではないか。「人が死ぬ」ということに対する想像力の欠如が、死刑容認を増やしているのではないか。凶悪事件を起こす人間に対し、よくこの「現実感の欠如」みたいなことはいわれる。だがしかし、我々ごく普通の人間も、「死刑で人が死ぬ」ということに対し、リアリティを感じない人が増えているんじゃないか。——死刑とは、「人を殺す」ことなのだ。そのことを、リアリティを持って感じることができているだろうか。多くの人は、事件は「死刑判決」が出て確定したらそれでおしまいと思っている。それでもう死刑は済んだかのように思っているんじゃないか。実際にその犯人が国家によって殺されているということをあんまり想像してはいないんじゃないか。

例えば、自分の子供や恋人が殺されたら。そういうことをリアリティを持って想像することはできる。そうなんだ、犯罪の被害者の立場というのは僕らは容易に想像ができるんだ。が、加害者の立場というのは想像するのが難しい。自分の子供や恋人が人を殺したら、更には自分が人を殺したら、そういうことをリアリティを持って想像することができる人は数少ないんじゃないか。

僕らの想像力というのは、常に「一方通行」である。自分の立場、より自分に身近な立場は容易に想像し得るが、その反対は想像できないし、「想像する」ということすら想像できない。例えば、テロで多くの人が殺された。その犠牲者やその身内のことは想像できるが、テロを起こすしかなかったテロリストの立場は誰も想像しようとは思わない。交通事故で子供を殺された親の立場は想像するが、事故を起こしてしまったダンプの運ちゃんのことは誰も想像しない。空襲や原爆で辛い目にあった祖父のことは想像できるが、彼らが大陸で殺戮した中国人のことは想像しない。——僕らは、「わかりやすい立場」しか想像しないのだ。そしてその立場への想像だけをもとに物事を判断してしまうのだ。

人を殺した人間の立場、凶悪犯罪を犯した人間の立場、そんなものは誰だって想像したくない。想像したくないものはないことに、もしくは見なかったことにし、想像しやすい、同情しやすい、共感しやすい立場だけを思う存分想像して「この人たちのことを考えてみなさい!」と声高に叫ぶ。そういうことがないだろうか。

想像したくないものから目を背け、想像したいことばかりに目を向けて生きる。そういうところが僕らにはある。はたして、そうした人間たちの築く世の中が良い世の中となるだろうか。——僕は、自身は死刑反対だが、それを他人に押し付けようとは思わない。ただ、「想像してみて欲しい」のだ。それまで、自分が想像したことのなかった立場が世の中にはあるということを。死刑に限らず、「自分がそれまで嫌悪し続けてきた者たちの立場」をリアリティを持って想像できるか、ということは、物事を考えるためにとても重要なことではないだろうか。

公開日: 水 - 2月 23, 2005 at 07:04 午後        


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