往生際


往生際の悪い奴っているもんだ。はっきりいって、そういう奴ら、大好きだ。

最近のニュースを眺めていて、ふと思ったことがある。それは「往生際」というやつだ。ダイエーの再建計画。往生際が悪かったねえ。さっき見たニュースでは、痴漢で駅員につかまった男が自分の首にナイフを突きつけて駅の執務室に立てこもるという事件が載っていた。これまた往生際が悪い。三菱の欠陥バスがこの期に及んで被害数を過少申告。凄まじく往生際が悪い。——ともかく最近目につくのは、この「往生際の悪い連中」のニュースだ。ほんっと、こういう連中ってのはいつの時代になっても減らないみたいだね。

そして。これはものすごく意外なことにびっくりしたんだけど、どうやら僕という人間は、こういう「往生際の悪い連中」というのが好きらしいのである。——いや、別に「立派だ」とか「いいぞもっとやれ」とかいうわけじゃなくてね。そりゃあ悪いことした奴は悪いに決まってるよ。そういうんでなくてね、なんていうのかなぁ、こう「もうどうしようもないってとこまで来てて、何をどうすることもできないってのに、それでも諦めきれずに死にものぐるいであがこうとする人間」というのが嫌いになれないんだなぁ。少なくとも「人間として正しく生きてるよ」と思ってしまったりするのだよね。

僕が生理的に嫌悪してしまうのは、この反対の「往生際がやたらといい連中」だ。例えば、あの集団自殺した人たちとか。なんでこうもあっさりしてるわけ? なんていうのか、こう「まだまだ最後の最後まで諦めんけんね」みたいなもんはないの?とか思ってしまうのだ。日本人というのは「引き際」というのを重視するところがあったりして、引き際良くあっさりと身を引くのを「立派だ」とかいうし、逆に往生際が悪いのは「見苦しい」といったりする。でも、こう「妙に往生際の良すぎる人間」っていうのは、「人間として(というか生き物として?)どっか変」な感じがしてしまったりする。

引き際の見事な人間、往生際のよい人間というのは、そりゃ見た目は「立派」だよ。立派だけど、正直いって共感はできない。「ああ、立派だよ。俺には真似できないよ、以上」だったりする。往生際の悪い人間ってのは、人間として共感できる。「格好悪いよなぁこいつ。でも、人間、切羽詰まったらこうなっちゃうもんだよなぁ」的な共感がね。そして、少なくともこういう人間の方が、世の中を面白くしてくれるのは間違いない。こいつらは、しぶとい。こっちが「おいおい、そこまでやるか」というようなことをやってみせてくれちゃったりする。往生際のいい人間ってのは、見ててつまらない。

それにね。今は基本的に世の中が「よい世の中」であるから、この種の「往生際の悪さ」は格好悪くみっともないものにみえるのだけど、もし「悪い世の中」になったときにはどうであろうか、ということも考えてみたりするんだよね。例えば巷に軍靴の響きが満ち、大政翼賛な社会になったときはどうだろう。第二次大戦時、多くの人間や企業などはみんな軍に対し「往生際の良い」人々ばかりであった気がする。そういう社会に対し、往生際悪くあがいた人間たちもごくわずかだがいた。今の世の中から見れば、どちらが立派な態度であったかはいうまでもない。

もちろん、社会や権力に抵抗する人間と、痴漢で捕まるのが厭で立てこもった人間を一緒にしちゃ駄目だよ、ってのはある。ただ、どんなことであれ、あまりにも諦めよく無抵抗に現状をあるがままに受け入れる人間ばかりの世の中になったらまずいだろう、と僕は思うのだ。——どうも最近、若い人たちなんかが妙に「往生際の良い」人間ばかりになってるような気がするんだよね。なんでも現状を受け入れてしまう、無駄なあがきを最初からしようとしない、そういう人が増えている気が、ね。もっとしぶとい人間が増えて欲しいと思うのだ。どうも最近の日本、何事も往生際が良すぎるんだよね。

公開日: 金 - 10月 15, 2004 at 03:42 午後        


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