なぜ、答える?


12歳の子が12歳の子に殺された。わからないのは、なぜ、取材する? そして、なぜ、答える?

12歳の女の子が、同級生の女の子に、学校でカッターナイフを斬りつけられ殺された。——こういう事件が起こると、いつも真っ先に「少年法」だのといったものが出てくるのだけど、これについてはまだえらそーにいえるほど考えが深まってないので脇に置く。では、何が癇に障ったのか?(いや、自分でいうのもなんだけど、こういう事件を見ると必ずどこかでむかっ腹がたつもんで(笑))それは、取材についてであります。

前にも書いたけど、なぜ、被害者側に取材するのか? それが全くわからない。事件が起こってまだ一日しか経過していない。この段階で被害者の側にいって、一体、何を取材しようというのか。明確な意図があるのならばいざしらず、質問しているのは「○○ちゃんは、どんなお子さんでした?」だの「今のお気持ちは?」だのといった相変わらずの平凡すぎるものばかりだ。おそらくまだ検死が済んでもおらず遺体さえ戻ってきてはいないだろうときに、どんな子だったか親の口から聞き出すのがそんなに大切か? 親に尋ねなければ、どんな気持ちがわからないのか?

今、この時点で、子供を亡くした直後の親に無理矢理にでも聞かなければならないことが本当にあって取材しているのか、そのことを考えているのか。「テレビの視聴者がそれをのぞむから」などとばかげた理由を挙げないで欲しい。ジャーナリストであるならば、喩え全国民を敵に回してもやるべきこと、やるべきでないことというのが頭にあるはずだ。

そして。それ以上にいらつきの原因となっているのは、取材された両親だ。——あなた方は、なぜ取材を受けるんですか。受けて、今の気持ちなどを涙ながらに喋るんですか。子供を亡くした両親にこういうことをいうのは猛烈な批判を受けることはわかっているのだけど、僕にはどうしてもわからないのだ。なぜ、そうまでして人前に出て喋れるんだ? もし自分がその立場だったら、自分の娘が殺された直後にテレビや新聞の取材がのこのこやってきたら、テレビカメラを叩き割り、家から全員叩き出してやる。人をなんだと思っているんだ。きさま、それでもジャーナリストか。面ぁ洗って出直してこい。そう怒鳴りつけてやる。そんなの当たり前のことじゃないか?

なぜ、こんな状態のときに、取材を受けなければいけないんですか。テレビや新聞の取材といわれると、なんとはなしに、対応しないといけないように思ってしまったんですか。それが市民の義務であるかのように考えてしまったんですか。——こういうのを見ると、僕は悲しいとか情けないとかを通り越して怒りがふつふつ湧いてしまうのだ。こんなときぐらい、怒れよ! 今、この状態で怒らないで、あなたは一体、いつ怒るんだよ! と。

全くの赤の他人である僕が当事者に腹を立てるのは理不尽なのはわかってる。だけど、なぜ、多くの人はこんなにもメディアというものを偉いもの、ありがたいものであるかのように受け取ってしまうのだろう。どんなときでも、それにちゃんと対応しないといけないんだと思ってしまうのだろう。たかがテレビ、たかが新聞じゃないか。

こういう悲しい事件、悲惨な事件が出る度、いつも新聞やテレビで亡くなった被害者の家族などが涙ながらに取材を受けるシーンが出てくる。未だかつて、一度も、「何考えてやんだバカヤロー!」と記者を叩きだす姿というのは見たことがない。なぜだ? みんな、そんなに悲しくないのか? そんなバカな!

「一体、この男は何をそんなに怒ってるんだ?」といぶかしく思っている皆さん。どうかほっといてください。僕は悲しいんだ。自分の子供が殺されても、多くの親は周りが見えなくなるほどに取り乱さずに済んでいることが。ごく常識的な悲しみでおさまっていることが。いや、当人たちの苦しみは僕にはもちろんわからないだろう。本当は狂わんばかりになっているのだろう。けれど、それでも、取材を受けられるのか? それが僕にはわからないんだよ。

公開日: 水 - 6月 2, 2004 at 07:31 午後        


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