バカの定義


・・ってのは難しいね。

本屋に行ったついでに、「まれにみるバカ」を買って来た。勢古さんはなかなか面白い話の展開をすると思うのだけど、どうも「バカの壁」などが頭にあって、なんとな〜く「二番煎じ臭い」感じがしてしまい、今まで読まなかったのであった。が、なかなかライトに読めて面白かった。僕は、この人の考え方のいくつかについては相容れない部分があるのだけど、その論を展開する態度は実にすっきりしていていい。

勢古さんは、本の中でさまざまなバカについて話をしているけど、それが実によく考えられている。——日本では、「バカ」とは「無知」のことであるように思われている。だけど、無知はバカとは違う。世の中には、圧倒的に「知恵のあるバカ」のほうが多いのだ。そのことをかなり深く掘り下げているのが面白かった。

無知というのは、要するに「記憶力」のない人間ということなのだと思う。が、「知恵」というのは、記憶力だけで形成されているものではない。「記憶力」は、僕は「知能の体力」だろうと思っている。スポーツをするのに、体力は確かに必要だろう。だが、体力だけしかない人間がプロ野球の選手やJリーガーになれるかといったら、まず絶対になれない。スポーツにすぐれた人間というのは、体力の他に、反射神経、判断力、そしてさまざまな経験から生まれた直感といったものが積み重ねられているわけだよね。

知能・知恵においても、同じことだ。体力に相当するものが記憶力であり、反射神経に相当するのが演繹力・判断力といったものであり、そして直感に相当するのが洞察力なのだろう。こうしたものが積み重なって、知恵というのは生まれているわけだ。——ところが、日本では奇妙なことに「記憶力だけで知能を判断する」ことが当たり前になってしまった。いかに多くの知識を記憶しているか。それが「頭の良さ」を決める唯一の物差しとなってしまった。体力だけでプロスポーツ選手を選ぶようなことを行なっているのだ。

「バカ」とは、僕は「演繹力・判断力に欠ける人間」のことだと思っている。平たくいえば「考える力がない人間」のことだ。ものを知らないのは無知であり、バカではない。無知であれば、知ればそれで済む。だが、バカは始末に負えない。考えることのできない人間にそれを教えることは思いの外に難しいのだ。

非常に困るのは、一見すると「思考力のすぐれているように見える人間」の中に、実は「そう見えるだけで思考力が皆無な人間」というのが混じっている、という点である。何やら偉そうなことをいっているけれど、よく聞いてみればそれはすべて他人の受け売りであったりして、自分が考えたものは何一つない、そういうこと。そう、記憶力によって、思考力のなさをごまかしているのである。そして、そういう人間の方が、案外立派そうに見えてしまったりするのだ。

何より困るのは、そういう本人自身が、そのことに気づけない点だ。そう、バカは、自分では「自分がバカである」と気づけないのである。——そして、であるからこそ、僕は「自分はバカでない」と思うことが怖かったりする。

そう。僕は、バカなのかも知れない。僕は、ふと気づけば耳から入った情報だけを鵜呑みにして、それを偉そうにまるで自分が何か考えたかのように吹聴したりしていたかも知れない。そうしている瞬間、人間というのは自分がそうしていることに気づかないのだ。「自分は自分の論を述べているのだ」と実に簡単に錯覚することができるのだ。

おそらく、バカとバカでない人間の違いとは、バカが通り過ぎた後に、「自分がそのとき、バカであったのではないか」ということを検証できるか否か、ということなのだろう。時間が経過して自分の行いを冷静に省みることができるようになるか。それができるならば、少なくともバカではないだろう。

ときどき、こうして書いているブログを読み返したりすると、「ああ、オレはバカだ」とがっくりくることが多々ある。改めて読めば、考えが浅はかだったり、一時の思いつきでえらそーに意見していたり、勘違いしたまま話をしていたり。——ただし、少なくとも「確かにこれはバカだ」と思えるだけ、まだしもバカでない部分が残っているのかも知れないな。(・・と自分を無理矢理納得させようとしている点にバカさがちらちらと覗き見えたりするのであった)

公開日: 木 - 9月 16, 2004 at 07:00 午後        


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