「論考」を読む
「論考」が届いた。午前中にちょこちょこと読んでみたけど、この感覚、どこかで経験してるぞ。
今朝方、AmazonからDVDと一緒にウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が届いた。で、さっそく午前中にちょこちょこと読む。うーん、ちょうど単行本があがったところでよかった。追い込み時期にこんなのが届くと仕事も読書もどっちもやってられん状態になりかねないもんね。——まだ半分もいってないぐらいなんだけど、この前半部分で分析し定義したものが積み上げられ、それら自ら明確に定義した道具たちによって次第にあらゆるものごとが「カシッ、カシッ」と再定義されていく様はなんともいえず心地いい。およそ哲学書の中で、これほど「明析され再構築される快感」というのを感じられるものってのはないよなぁ。ところで、「論考」を通して読むのは初めてのはずなんだけど、どうもこの感覚というのが、以前にどこかで感じたものと相通ずるような、ある種の感覚のデジャヴみたいなものに絶えずつきまとわれていたのだけど、それが何なのか、さっきようやく思い至った。これは、その昔に人工知能の話を読んでいた頃に感じた感覚と通ずるものでないか。——もう十年以上昔になるけど、人工知能学会報に、言葉の意味と定義に関する論文が出ていて、そこで(当時の自分としては)斬新な考えに出会ったことがある。例えば、「赤いリンゴ」という言葉があるとき、「赤い」には「赤の意味」はなく、「リンゴ」には「リンゴの意味」はない。「赤い」という言葉が赤を示すのは、その「赤い」という言葉そのものに「赤を示す意味」があるのではなく、「赤い」という言葉とそれ以外の言葉との関係の上に意味がつけられる、という考え。例えば、この世に「赤い」という言葉以外の言葉が一切存在しないとき、この「赤い」という言葉に「赤の意味」は存在し得ない。「赤い」という言葉が「赤の意味」として機能するのは、赤という属性を持つ様々なものを示すのに用いられることで、その「関係」によって意味付けられるのだ、云々。当時の人工知能学会では、「赤い」という言葉にどのようにして「赤の意味」を持たせるか、いろいろな考えが出されていた。だが、「単語にア・プリオリな意味」を見いだすことは考えてみれば奇妙だ。言葉は、それ自体に先天的な意味があるのではなく、他の言葉との関係において意味が見いだされるのだ。この考えは、その当時の僕にとってはえらく新鮮に感じられたものだ。人工知能というのは、コンピュータの世界の最先端の分野、いわば「もっとも左脳的な世界」だ。それと哲学という(僕の感覚からすれば)もっとも右脳的な学問で相通ずる感覚があるというのは、なんとも奇妙でくすぐったい。なんだか、「ずっと右に進んでいったら、ぐるりと一周して一番左端へ出てしまった」みたいな感じがする。そして、このデジャヴ的な感覚は、「自分の脳が正常に機能していることに対する喜び」みたいなものへと通ずるような気がする。ときどき僕は、自分の脳が果たして正常に機能しているのかということに対する盲目的な信頼が揺らいでしまうことがある。自分の脳は、物事を正しく見、正しく考えることができなくなってはいないか、という半ば恐怖に駆られるようなことを思ってしまうことがある。こんなブログを書き散らかしているのも、どこか根底の部分で「自分の脳が正しく物事を考えられているのか否か」を確認したいという欲求があるのだと思う。「論考」では、まだ自分の脳が正しく物事を論理展開し理解できるよう機能していることをひしひしと感じる。読んでいて、自分の脳がまさに今、必死になって思考しているのだ、ということを感覚的に実感できる。これは、久しく忘れていた、それでいて懐かしい感覚なのだ。自分の脳がフル回転で演繹しているのを実感できる、その快感。人工知能の論文を読んだときにも感じたある種の感覚というやつは、「自分の脳にとって全能力をフル活用し咀嚼しなければ飲み込むことのできない新しい概念に出会ったときの感覚」であったのかも知れない。それが、久しぶりに「論考」によって甦ったのだろう。まだ、自分の脳は老いぼれてはいないな、そう少しだけ安堵する。もちろん、理解力は歳と共に衰えるし、記憶力なんざ見るも無惨な状態になりつつある。けれど、速度は遅くなっても、力は弱くなっても、少なくともそれらは「正しい演繹処理をしている」ことは確かだ。そう思えることが、僕にとっては一つの安らぎなのだ。
※「論考」を読むパパと一歳児。
公開日: 火 - 3月 16, 2004 at 03:38 午後