なにが「本物」なの?
「本物を知って欲しい」というけど、何が本物なのだろう。
朝刊を読んでいたときなんだけど、コラムで「最近の人は本物を知らない」というようなことが書いてあった。いや、食べ物の話なのだけどね。既におろしてある大根おろしをパックで買ってきて食べたりする(←へぇ、そうなんだ)けど、ちゃんとした大根を自分でおろして食べるのが「本物」のおいしさだ、というようなことを書いてあった。その人は自分で無農薬で野菜を作ったりしていて、それを「これが本物の味なんだ、そういうものを知らないでいる人が多い」というようなことをいっていた。
それはとてもよくわかるし、大根おろしはそりゃあ家でおろしたて(?)で食べるのがうまいに決まっているとは思うのだけど、なんとなく釈然としない感が読後に残ったのだった。それは、「本物っていうのは、何なのか」という疑問が湧いてきたからなのだね。
無農薬で作った野菜なんかを「これが本物の味だ」みたいなことをいう人は多い。要するに、人間が作り出した味でなく、自然が生み出したそのままのおいしさ、これこそが本物なんだ、ということなんだろう。——そうなんだろうか? そこがよくわからない。「自然のままが本物」で「人工的に生み出したものが偽物」という理由がわからない。
そもそも、今の野菜というのは、すべて「人間が食べるために作り出したもの」であるはずだ。自然のままのものなどほとんどなく、ほぼすべてのものは食料としてよりよいものにするため品種改良を重ねて作り出されてきた。それは、既にその時点で「自然そのままのもの」ではないような気がする。それを「悪い」というわけじゃない。そうやって、本来人間が暮らす上でたいした役にも立たないものを、長い年月の間に、人間の知恵によって人々に役立つものにしてきた。大げさな言い方だけど、そうやって人類はここまでやってきたのだ。そうした「人間が生み出した知恵」をすべて「自然ではない」というだけで「偽物だ」といわれると、「そうなのか?」と反発したくなる。
いや、もちろん、「無農薬のものより、農薬をばしばし使ったものが本物だ」といってるわけじゃないよ。ただ、無農薬農業を否定するつもりはないけれど、無農薬や有機農法は、ある程度の化学肥料を作って大量に生産したものより収穫量も少なくなるし、値段も高くなる。生活を切り詰めて暮らすしかない人々には無縁で、経済的に余裕のある人のためのものであることは確かだろう。また、世界中の農業が化学肥料を使わないようになったら、今よりも確実に食料の生産量は落ち、飢える人々は増えることだろう。「たとえ今より多くの人が飢えても、無農薬にするべきだ」という人はいまい。結局、「私たちは無農薬の安全だけど高い野菜を食べるけど、そうでない人たちは安くて危険な食べ物を食べてね」で終わってしまっているんじゃないか。
ときどき、こういう「自然が一番、文明は悪だ」というような人々に出くわすけれど、そうした「文明を悪いと決めつけ、自然にしたがって生きる」ことは、実はその他の多くの人々が現在の文明社会を維持してくれているからこそ可能であることを見落としているようなところがある。——少し前に、富良野に「北の国から」のじゅんの家(だっけ?はっきり覚えてない)が完成したとかいうのを新聞で読んだのだけど、「北の国から」で喰ってる人々は、圧倒的多くの人々が社会の中で働き、富良野に観光にやってきて金を落としてくれるから生活できているわけなんだよね。それなのに、そうした人々に「文明に毒されている暮らしは間違ってる、自然の中で生きるのが正しい」的なことをいわれると、ムカッとする。「文明に毒されながら懸命に働く人々がいるから、あんたたちはそのおこぼれに預かって暮らしていけるんじゃないのか?」とかいいたくなってしまう。
自然と文明、それは「どちらが正しい」というようなものでなく、「そのバランス、その共存」がもっとも重要であるんじゃないか。どちらを欠いても、人間は生きてはいけない。それを「こちらが本物、こちらが偽物」と決めつけるような物言いが最近増えている気がするのだ。「そういう二者択一の、どっちかが正しくてどっちかが間違いというような考え方こそ、偽物だ」と僕は思ったりするのだけど、どう思います?
公開日: 日 - 12月
26, 2004 at 05:02 午後