被害者と加害者
被害者は生まれながらに平等だが、加害者は生まれながらに不平等である。
最近のブログのせいか、僕は「加害者を擁護する人」と思われているフシがあったりする。うーん、別に「被害者のことなんて考えるな、加害者のことをもっと大切にしろ」とかいっているわけじゃないんだけどね。被害者の立場を考慮するのは勿論重要なことです。が、だからといって「加害者のことなんて考える必要はない」というような風潮があるのはどうなのか、と思うのだね。そういう空気を、僕はしょっちゅう感じるのだ。
多くの人は、何かの事件を考えるとき、圧倒的に「被害者の立場」に立ちたがる。「加害者の立場」に立ちたがる人はいないと思う。もちろん、法的な問題とかそういうことでいえば、まだまだ「被害者の立場」が考慮されていないことは多い、それは確かだ。ただね、ごく一般の人の感情からいえば、ほとんどの人は「被害者の立場」しか考慮せず、「加害者の立場」など全く顧みられていないのもまた、確かだと思うのだ。だからこそ、僕はあえて「加害者の立場」にも立って物事を考えようと思うのかも知れない。
被害者と加害者の違い。——それは、「被害者」は皆、平等だが、「加害者」は不平等である、というところにあるように思う。え、意味がわからない? つまりね、僕らは皆、平等に「被害者になる可能性」というのを持っているのだけど、「加害者になる可能性」は決して平等に持っているわけではない、ということなのだ。世の中には、加害者になる可能性をほとんど持たない人生を歩む人もいれば、かなり高いその可能性を持った人生を歩んでしまった人もいる、と思うのだ。
誰かの恨みを買ったとか、何かトラブルを引き起こしたとか、そういう「被害者になる可能性の高い人生」を歩んでしまう人も確かにいるだろう。だが、事故に巻き込まれるとか、たまたま通り魔に出くわしたとか、そういう「誰が被害者になってもおかしくない」という出来事が今は多い。ほとんどの人にとって、そうした事件の被害者になる可能性はほぼ平等なのだ。
だが、加害者になる可能性は、全くの不平等だ。——人は生まれながらに不平等である。生まれたその時点で、親、家、外見、環境、さまざまな点で人は既に不平等である。そして不平等な中で成長し育たなければならない。何不自由なく、人を憎むことも知らずに成長する人もいれば、人間として成長する機会を奪われた人生を歩むしかなかった人もいる。
・・何かの事件を起こしたとき、僕らは「自分だったらこんなバカなことはしない」と考える。だが、それは「自分が、加害者となる可能性の低い人生を歩んできたから」であることを見過ごしている。例えば、かの池田小事件の宅間守という加害者がいた。「あんな事件を起こすなんて信じられない」「自分は絶対にそんなバカなことなどしない」と多くの人は思うだろう。「あの宅間という人間がおかしいのだ」と多くの人は考えるだろう。——だがもし、あなたが宅間守と同じ頃に生まれ、病院で宅間守と取り違えられ、宅間守として育てられ成長したとしたらどうだろう。あなたは、絶対に「あの宅間守にはならない」と断言できるだろうか。もしかしたら、あの宅間守は自分かも知れないとは思わないだろうか。
人間は、最初から「加害者になるために生まれてくる」わけではない。多くの場合、さまざまな理由や要因によって加害者に「なる」のだ。そのことを僕らは忘れがちだ。世の人々の多くは、加害者というのを、その人間固有の問題であると切って捨ててしまう。加害者の気持ちを僕らは考えようとはしない。だが、多くの場合、「その人間固有の欠陥」によって加害者になるわけではない。「加害者になるように育てられる」のではないか。——例えば、殺人などの事件。例えば、交通事故。例えば、罪なき人々を殺すテロリスト。その多くは、そうなるための理由があったのではないか。加害者側に回るしかない人生を歩んできた結果ではないのか。
加害者の立場を考える。そのことができない人間は、「自分が加害者であるかも知れない」ということを考えようとはしない。そのことを僕は怖れる。——もし、加害者が「そうなるべくしての人生を歩んでしまった」のだとしたら、僕らも実は知らない間に「そうなるべくしての道を歩んでいる」こともあるのではないか。例えば社会全体が「加害者になるべくしての道を歩みだした」というとき、僕らは果たしてそこから自分一人が抜け出ることができるだろうか。「自分だけは決して加害者側には回らない」と断言できるだろうか。いや、そもそも、自分が加害者の側に回りつつあることに気づくことさえできないのではないか。
例えば、ハンセン病差別というのがある。先日、「ハンセン病問題に関する検証会議」がハンセン病問題に関する最終報告書を出した。そこでは「医師の盲信や怠慢に国が便乗し、旧厚生省が療養所の予算獲得を優先した結果だ」と結論付け、またメディアも積極的にこの問題に関わろうとせず不明と無関心を貫いたと非難していた。——僕らは、今でこそ当時の行政やメディアを「怠慢だ」と糾弾できる。だが、その当時、僕らは果たしてどうだったのか。僕らは、加害者ではなかったか。
多くの人はそういわれると口を濁す。「いや、当時は何も知らなかったから」「そういう立場になかったから」と、なんとかして加害者の立場から逃げ続けようとする。だが、そうした状況に気づかず、メディアや行政の言を鵜呑みにして何も疑問も感じず、現状を追認していたのは確かではないか。僕らは、僕は、加害者だ。僕は確かに、いわれなき差別のある社会を容認していたのだ。そうした問題に気づこうと思えば気づけたかも知れないのに、僕はそうはしなかったのだ。僕は、断じて被害者ではなかった。僕は加害者だった。そして、ただ加害者であるだけでなく、自分が加害者であることから長い間、目をそらし続けてきたのだ。
加害者の立場を考える。加害者を「特別な人間、普通の人間とは別の生き物」視することをやめ、加害者はどうやって作られたのか、加害者たる立場に立たないで済む道はなかったのか、それを考えることが、本当にその事件や問題を考えることにつながるのではだろうか。そして、そう考えられるようになった時、僕らは「自分も、今、この瞬間に、何らかの加害者的立場に立っているのではないか」ということに気づけるのではないだろうか。そう思うのだ。
だからこそ、僕は「加害者の立場」を考えることを放棄したくないのだ。イヤなものから目をそらしていれば問題が解決するわけではない。イヤなものを見つめ続けなければならないことも、世の中にはある。
公開日: 月 - 3月 7, 2005 at 03:01 午後