暴君とは
・・どういう人間だったのか、ということを考えてみたりしたのでした。
昨日あたりから、陳舜臣の「小説十八史略」をまた読み返している。これは「十八史略」という中国の歴代王朝の正史をかいつまんでまとめた史書を、陳さんが更に小説風にアレンジしたもの。読みやすいし、古代から中世までの流れが大雑把に把握できるのでけっこう好きで時々読み返している。
で。古代から連綿と続く王朝の衰勢というのを眺めてみると、つくづくと思うのは「トップに立つ王様の重要性」である。王朝が傾くのは必ず暴君が登場した時であり、暴君というのはいつの時代も、またどこの国でも出てしまうものなのだなぁ、と思いつつ読んでいたのだけど。——この「暴君」というやつ、手っ取り早くいってしまえば「さいてーの王様」っていうのが、実はよく見ると我々が考えているような人間ではない、とういことに気づくのだね。
普通、暴君というのは「バカ王」というイメージで考えがちだ。頭の悪い王様、バカな人間が王様になるとこうなるんだ的なイメージが、ね。が、実際のところ、そうした「頭の悪い王様」が暴君になることはない。これらは「平凡な王様」か、悪くても「暗君(愚かな王様)」どまりなんだよね。——では、暴君となるのはどういう人間なのか。それは「ものすごく頭のいい人間」なのだ。
トップがどんなに愚かでも、その回りに頭のキレる人間が何人もいてしっかりと運営していれば、国はそう簡単には傾かない。王様がバカなことを言っても、回りがそれをうまいこと処理してしまうからだ。本当の悲劇、それは「王様より優れた人間が回りに一人もいない」という状況なのだ。王がもっとも優れた人間であり、もっともすぐれた意見を述べる。回りには、それに対抗できるだけの考えを持った人間がいない。そういうときに暴君は生まれるのだね。
どんなにすぐれた能力であっても、それが外部とまったく何の交渉もなく、ただその能力だけが一人歩きしてしまうような事態に陥ると、たいていは最悪な方向へと進んでしまったりする。そう考えると、人間というのは「能力の高さ」だけが必ずしも重要なのではない、ということがわかってくる。どんなに立派な力であっても、それが常に回りの批判に晒され、他の考えと交わることで自身にフィードバックされ、軌道修正していくことがなければ役には立たない。どんなに立派な車であっても、まっすぐ進むだけで方向を変えることができなければそれは「暴走」でしかない。とても安心して乗る気にはなれないだろう。
そうした目で今の世相を顧みれば、なんというか「頭脳明晰で行動力のあるトップ」を熱望するような時代となっているように見える。小泉という人間があれだけ高い支持率で登場したのも、それまでの「ぼ〜っとした暗君」から「頭脳明晰な名君」を熱望したからかも知れない。——だが、「もっとも優秀な人間」がトップに君臨するのは本当によいことなのだろうか。優秀といってもさまざまな種類がある。何かの実務能力だけが優秀なのか、人間関係やコミュニケーション能力が優秀なのか、ものごと全体を俯瞰的にとらえて動かしていく力があるのか。あるいは、すべてにおいて完璧なのか。
芸術や学術の世界ならまだしも、実業や政治の世界においては「孤立した天才」よりも「多くの天才を回りに持つ凡人」のほうが遥かに立派な仕事ができるようだ。トップは、別に自分がすべての面で優れている必要はない。優れた人間を使う能力があればいいのだから、ね。今の風潮を見るに、「上に立つ人間はどうあるべきか」というものの見方を少し考え直した方がいいように思えるのは僕だけなのかなぁ。
公開日: 月 - 2月 21, 2005 at 02:21 午後