過失と確信犯、どっちが悪い?
間違っちゃった、というのは誰にでもある。だけど「間違ってないよオレは」というのは、場合によっては更に悪かったりしない?
本当に小泉純一郎という人間は一国の指導者には向かない人間だと思う。小泉純一郎が総理となった当初から小泉総理反対を唱えてきた人間としては、最近になってようやく小泉人気という魔法が解けてきてやれやれと思っている。というか、なんだってあんなにも多くの人がこの人の言葉の呪文にかかってしまったのか今でも不思議なくらいだ。(ついでに、石原都知事という呪文も早いとこ解けて欲しいものだ)
年金問題。とうとうこの人まで未加入期間があったことがすっぱ抜かれた。「未納ではない、未加入なんだから問題はない」というのを聞いて、なるほどこの人らしいなとつくづくと思った。その通り、法的な観点からいえば、未納と未加入は違う。未納はおさめるべきものをおさめてないということであり、未加入はそもそも参加してないんだから払う必要はない、ということだ。——そして、この人のこの人らしい点は、「未納より未加入であることの方が問題なのだ」ということがわかってないところにある。
未納というのは、「おさめないといけないのはわかっているけどおさめてなかった」というものだ。要するに「払わないといけない」というのはわかってるけどうっかりしちゃったんだよ、ということだね。つまりは「過失」だ。だが「未加入」というのは、「自分は、年金制度に加入しなくてもよいと判断した」ということだ。当時は強制加入ではなかったから、年金が必要と思う人は加入し、必要でないと思った人は加入しなかった。だから法的には問題はない。問題は、「この人は、年金制度は自分にとって不要だから参加する必要などないと考える人だった」ということだ。
年金制度は、すべての国民が少しずつ負担をすることでみんなの老後の生活を保障していこう、という制度である。当初は強制加入ではなかったが、その制度の意味を考えれば全員が平等に負担しなければ意味がない。いや、すべての人間が等しく負担するところにこそ年金制度の根本的な意味がある。いわば、年金制度の要となる部分だ。だからこそ強制加入に変わったわけだね。だが、この人はその要の部分がわかっていなかった。「自分はいらないから加入しなくていい」という考えだったわけだ。「自分にとって益があるか否か」で年金制度というものをとらえていたわけだ。
そりゃ、一般の人間ならそういう考え方はあるよ。けれど、政治家なんだよこの人は。国の制度を作り運営していく立場の人間なんだ。政治家というのは、少なくとも「自分個人に利益があるかどうか」ではなく「国のあり方としてどうあるべきか」を常に考えて行動できる人間でなければいけないんじゃないか? それが、政治家たるための最低限の条件なんじゃないか? この人には、それがない。国の行く末を決めるべき政治家とは「自分には益がないからいらない」と考える人間に務まるものなのか? 「自分には益がないけれど、この制度は国民にとって必要なんだから参加しなければいけない」と考えられる人間こそ、政治家たるべきではないのか?
小泉純一郎は、昔から「それが何のために存在するか」という存在意義を理解せず、「どんな利益があり、どんな害があるか」という利害だけを理解して行動する人だった。それは、一貫しているように思う。郵政改革にしろ、彼の口から出るのは「今の制度にはどんなデメリットがある、民営化すればこんなメリットがある」という言葉ばかりだった。郵政という制度は何のためにあり、どうあるべきかという存在意義に関する言葉はほとんど聞かれなかった。道路公団改革もそうだし、靖国参拝のような問題もそうだ。それが何のために存在するのか、ということをこの人は全く考えようとしないのだ。
僕は、この人の改革を否定するわけじゃない。郵政も道路公団も民営化するのはよいと思ってる。たぶん、多くの人もそう思って、それで勘違いしたんだろうと思う。「この人は改革の旗手だ」と。だが、そうではないのだ。それらの問題に関し、「たまたま同じ方向を向いていた」に過ぎない。彼は、物事の本質など考えないのだ。本質を見ず表層的なことしか考えず、でありながら自己の正しさをなぜか確信し、自己の過ちを認めず、自己に反する立場の声を顧みない。僕らは、そんな人間に国政を任せなければいけないのか。
過失は、まだ我慢できる。だが、確信犯は我慢できない。
※「確信犯」
道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪。要するに、「悪いとわかっていながらやってしまった」のではなく、「そもそも悪いと思ってない」こと。正しいと信じてやっているからこそ、確信犯は矯正できない。
公開日: 日 - 5月 16, 2004 at 11:38 午前