帰国なのか、来日なのか


蓮池・地村両家族が帰国だそうだ。おめでとう。・・でも、「帰国」なのか?「来日」ではなくて?

北朝鮮による拉致被害者に関することは、日本では「反対意見はいってはならない」タブーになりつつあるような気がする。拉致被害者やその家族は日本に強制的にでもつれてくるのが日本では絶対的に正しいのだし、それ以外の被害者は北朝鮮の発表の通り亡くなっているんじゃないかということもタブーになってる。なので、これから書くことはそーとー批判されそうな気がするのであらかじめ述べておきます。——北朝鮮は悪い国で、日本はいい国だというその最大の理由は、日本が民主国家であるからであります。民主国家たる最大の理由は、「言論の自由が保障されている」ことであります。どのような意見であれ、それを述べる権利が保障されているのであります。・・と、予防線を張っておいて(笑)。

蓮池さんと地村さんの家族(つまり子供たち)が帰国した。今回の政府の対処が正しいか否かといったことについては脇においておく。僕が感じたのは「帰国」という言葉だ。帰国なんだろうか。来日ではないんだろうか。蓮池さんと地村さんは、日本人だ。だから、日本人同士の間に生まれた子供は日本人だ。そういう意見があることはよっくわかっている。でも、どうしても思ってしまうのだ。彼らは、日本人ではなくて、朝鮮人ではないのか、と。

血は水よりも濃いという。それは確かにある。が、それは例えば「親子のつながり」といったものについていう言葉であり、「日本人の血」なんてものについていう言葉ではないように思う。「何国人」という呼び方は、血ではない。その人が生まれ育った環境や文化をもっていう言葉ではないんだろうか。「いや、日本人というのは大和民族の血を受け継いだ・・」などという人間がいるかも知れないのでお断りしておく。日本人の中には、大和民族の血なんざこれっぽっちも入っていない人間もたくさんいます。KONISHIKIや曙太郎も、クロード・チアリもれっきとした日本人であります。「あの人たちは日本の国籍があるだけで外国人じゃん」などと愚かなことをいわないように。そういう人種差別的感覚は反吐が出るほど嫌いなんだ僕は。

で、帰国(?)した子供たちは、そういう点でいえばやはり朝鮮人ではないだろうか、と思うのだ。そして、彼らを「本当は日本人の親から生まれたんだから日本人だ、だから日本で暮らすのが正しいんだ」と決めつけるのは正しいのだろうか、とも考えてしまうのだ。——もちろん、彼らの両親は拉致されて北朝鮮に連れて行かれたのだから、日本に帰るのが正しい。それは正論だ。「親子が離ればなれに暮らすのはいけない→親は日本で暮らす→故に、子供も日本で暮らすべきである」という理由は僕にだってとってもよくわかる。だが、理由はそれだけのはずだ。「北朝鮮での暮らし自体をすべて否定する」という感覚がどうも僕にはうまく飲み込めないのだ。

おそらく、僕の中にある違和感の根源は、現在の日本において「北朝鮮に関することは全て否定するのが正しい」という、ある種の「北朝鮮差別」が当たり前のようにまかり通っていることへの違和感からくるものだろうと思う。北朝鮮に関することは、どんなことであれ一切認めてはいけない。そういう空気が今の日本にはある。だが、それは果たして正しい感覚なのか。「何を言ってる、お前は北朝鮮のような国を認めるのか!」といわれるだろうことはわかっている。だが、北朝鮮の政府や体制を否定するのはわかるが、しかしすべてを否定するのは本当に正しいのか。北朝鮮という国の中にも、ごく一般の人々は生きていて、そこでの暮らしがあり、文化がある。それらさえもすべて否定するような空気が今の日本にはないだろうか。

帰国した拉致被害者の子供たちは、北朝鮮で生まれ、北朝鮮で育ち、北朝鮮の文化の中で生きてきた。朝鮮語を話し、自分が朝鮮人であることに誇りを持って今まで生きてきたのだろう。そのすべてを否定し、強制的に「日本人」にすることが本当に正しいのだろうか。「北朝鮮のような国の国民でいるより、日本人である方が絶対に幸せに決まっている」と無条件に決めつけているところがないだろうか。

もう一度、いっておく。僕は「帰国するのがいけない」といっているんじゃない。「親子は一緒に暮らすべきだ」という視点から、日本に来て一緒に暮らすのはよいことだと思う。だが、帰国する理由はそれだけであり、それ以外にはない。少なくとも、彼らが北朝鮮で育んできたものをすべて否定するような観点から帰国の問題を考えるべきではないと思うのだ。今の日本では、そうしたところがごちゃまぜになってしまっている気がする。僕らは、どんなことがあっても「文化の破壊者」になってはならない。

国家という実体のない抽象的なものを考えるとき、僕らはその言葉の向こうに「実際に暮らしている人々の生活」があることをつい忘れてしまいがちだ。国家などという幻想を追い求め祭り上げていく中で、実際にそこに暮らす人々が置き去りにされてしまうことはよくある。——アフガニスタンという国家、イラクという国家は悪である、だからこそつぶしてしまわないといけない。そうして開始された戦争は、果たしてどれだけのそこに暮らす真っ当な人々を殺し、その生活や文化を破壊したことか。

僕らは今、北朝鮮に対し同様のことを推進しつつあるのではないか。いや、僕らの心の中には、既にそうしてやりたい欲求が渦巻いてはいまいか。北朝鮮を滅ぼしてやりたい、そういう欲求。それが正しいんだ、そうすることで北朝鮮に住んでいる人たちも救われるはずだ、そういう錯覚。米国人が、アフガニスタンやイラクに対して考えたのと全く同じ考え。それを「正義である」と信じて疑うことのない、いや、疑うことを許されない空気。そういうものが日本全体を覆いつつあるのではないか。そのことを僕は何より怖れる。

僕は、あえていいたい。こういう時期だからこそ、声を大にして。「北朝鮮に暮らす人々やその文化を尊重すべきである」と。「それらを無条件に否定することが正しいという風潮を許してはならない」と。相手の一切を否定するような解決の仕方は、間違いだ。——願わくば、日本がまだそういう発言をすることが許される程度に民主的な国でありますように。

公開日: 日 - 5月 23, 2004 at 05:02 午後        


©