現地からの報告です
万単位の犠牲者の現場から、伝えるべきものは何なのだろう。
インドネシア沖地震の記事が連日新聞の一面を飾っている。この未曾有の災害にコメントする言葉もない。詳細が明らかになるに連れ、罹災者数はどんどん増えている。亡くなった方は6万とも7万ともいわれるようになってきた。今までの地震とは規模が違う。新年を前に、このとんでもない災厄に見舞われた方々にはかける言葉も思い浮かばない。
そして。地震から日が経つに連れ、テレビや新聞では「現地報告」というのが出始めてきた。「現地から○○のレポートです」というやつ。そうして、あちこちに亡骸が放置されたままの現場を歩き回り、泣き叫ぶ人々をカメラに写す。——これは、何なのだろう。報道の自由、知る権利、そういうものなのか。では、これは一体、何を報道しているものなのだろう。「現地の悲惨な状況を伝えているのだ」ということなんだろうか。
数万人もの人間が行方不明となっているのだ。数十万の罹災者がいるのだ。わざわざテレビカメラを持っていって映さなければ「現地がいかに悲惨なものか」わからないとでも思っているのだろうか。これが、例えば戦争ならばわかる。その現地に出向き、それがいかに悲惨なものかを伝える意味はある。これ以上の犠牲を出さないため、今まさに刻々と人々が死につつある現場の映像を世界に流す意義はある。また災害の現場で、罹災者がどのような状況にあり、行政はどう対応しているのかを現場の視点から報道することにも意味はあるだろう。——だが、海外で万単位の犠牲者が出た場所で、ただ「辺りを映すだけ」の報道にどんな意味があるのだろう。
ジャーナリストであるならば、映すべき映像はいくらでもあるはずだ。現地での政府の対応は適切になされているか。どのようなすぐに対処すべき問題があり、どういう援助が各国には求められているのか。海外からの支援物資や派遣された人員は適切に機能しているか。そうしたことを監視し、的確な対処を報道を通じて行政に求める、それは現地のジャーナリストしかできないことだろう。だが実際には、ただただ荒れ果てた姿と苦しむ人々を映して「ほらほら、こんなに悲惨です」と悲惨さの大安売りをして終わってはいないだろうか。
ただ「悲惨である」ことを確認するだけの現地報道など、いらない。なぜ、なんのために、今も多くの人々が苦しんでいるその場所にいくのか。そこからしか伝えられないものは何なのか。そういうことをもう少し考えて欲しいと思うのでした。現地では、今は、非常事態なのだ。こういうときぐらい、視聴率という国内事情は忘れて活動して下さい。
公開日: 水 - 12月
29, 2004 at 03:28 午後