統計の裏側は?


・・どうなっているのだろう、とか考えたことない?

今年の上半期の交通事故死亡者数が3400人台となった、という。これは70年の統計を取り始めてから過去最低なんだそうだ。そういえば、一時期は「年間死亡者1万人を突破」といわれ、交通戦争などといわれていたけれど、気がつけば年間死者数は7千人台にまで減り、更に年々減り続けているらしい。

これはもちろん、警察や交通関係の努力のおかげも、ちょこっっっとぐらいはあるだろう。車の性能向上(ABSやエアバッグの普及とか)や道路の整備などもあるに違いない。また、けっこう無謀運転するきらいのある若年層の人口が次第に減って来ているということも関係あるかも知れない。——けれど、こうしたもっともな理由よりも、もっと大きな理由が別にあるのではないか。それは、「統計上の問題で数が減った」という考え方だ。

一口に「交通事故死亡者数」というけれど、これはどういう死者数を示すか知っているだろうか。それは、交通事故が起こってから「24時間以内に死亡した人」の数なのである。従って、25時間後に死亡した人は、この数にははいらないのだ。——近年の医療技術の発達により、即死でない限りは、「もうダメだろう」という人でも24時間ぐらいはなんとか生かしておけるようになってきた。これが実は意外に大きな要因となっているのではないか。つまり、交通事故死亡者数が減ったのは、車や交通の進歩そのものよりも「医療技術の発達」という、全く関係ない世界の力が大きかったりするのだ。

こういうことって、けっこうある。例えば、「平均寿命」というやつ。我が国の平均寿命は世界一なんだけど、その最大の要因は「長生き」にあるのではなく、「出生後の死亡が少ない」ことにあったりする。乳児の死亡率が極端に少ないため、平均寿命が伸びているのだ。これは、うがって考えれば背後にこういうことが想像できないだろうか。つまり——「生まれた直後に亡くなった子は、死産にしてしまえ」という考え方が。あるいは、奇形や重篤な障害があることがわかった胎児は、早い段階で流産させてしまう、という発想が。そうした感覚は、実はあちこちで残っている。それが、平均寿命をのばすことに大きく貢献していたりする。

人は、数字に弱い。統計という数字を見せられると、なんとなく嘘っぽい結果だったりしても「でもそういう数字が出てるんだから」と納得したりする。けれど、「統計」と名のつく数字のかなりの割合のものは、実は統計的にはかなりいい加減なやり方しかしていなかったりする。——よく、テレビや新聞で電話調査なんかをやっているけど、ああいったものでは、質問の仕方(有り体にいえば、誘導尋問)によって、本来の結果とはかなり違う結果が出されていることが多いという。国が行なっている各種の調査にしても、よく調べてみれば「ええっ、そんな調べ方なの?」と思うことがけっこうあるんじゃないだろうか。

別に、統計の数字そのものが何かを引き起こすわけではない。統計はあくまで結果であり、それ自体には善も悪もない。単に「正確な統計」と「不正確な統計」があるだけだ。だが、ここで考えなければいけないのは、「その統計は、誰によって、誰のためにとられたものなのか」ということだ。

統計は、何のためにとられるのか。学術的な目的のものもあるだろうが、誰かが、何らかの目的のために、何かの考えを補強するために意図的にとられることだってある。

そういえば、だいぶ前に出た本だけど、利己的遺伝子の拡大解釈で定評のある女性コラムニスト(って誰だか丸わかりだな(笑))が出した血液型の本で、衆議院議員の血液型を調べて「政治家はO型が多い。O型は政治家向きなのだ」ということを書いてあったのを見たことがある。非常に面白い調査だが、実はO型が多かったのは、その回の選挙による衆議院議員だけで、他の回では全くそういう結果は見られなかったという。要するに「たまたまそのときだけO型が多かった」にすぎなかったのだ。統計そのものに間違いはなくとも、意図的にそれを利用することで自分に都合のいい結論を補強するのに役立つ。統計を提示する側にそういう意思があれば、統計はいくらでもねじ曲げた結論を導きだしてくれる。

もう少し、そうした「数字の裏側にある意味」を考えるように気をつけたいものだね。特にメディアは、あまりに数字を過信しすぎる気がする。数字を見たら、その数字は何のための数字か、誰のための数字か、そういうことをちょこっとだけ考えるようにしよう。

公開日: 木 - 7月 22, 2004 at 06:55 午後        


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