校庭の百周


何かを求め、得られる道。何も求めず、得られる道。どちらの道がより遠くまで進めるのだろう。

昨日の夕方、ヤマダ電機にお出かけした折、嫁がcoccoのDVDを買ってきた。「ゴミゼロ大作戦vol.0」というやつ。coccoってば嫁が好きな歌手だよなあ、でも突然引退して消えたはずだよなあ、などと思いながらも、娘が寝た後で夫婦で見てみる。

これが、全く想像だにしてなかったものでありました。それは、「海からゴミをなくそうよ」というメッセージDVDだったのであります。——coccoは、引退して沖縄に帰って、好きだった海があまりにゴミだらけなのに怒り、2年間、毎日ゴミを拾い続けていたらしい。が、拾っても拾ってもそのすぐ横で捨てていく人間がいる。怒り狂おうとしたのだけど、一人で怒ってるよかみんなで歌っている方がいい、と思って、沖縄の中学や高校を回って「ゴミ拾いの歌」の演奏会を開こうと画策する。そのドキュメンタリィみたいなものだな。

これは、とっても感動した。だけど、感動した場所というのがちょっとわかりづらいところかも知れない。coccoは、あちこちの学校を回ってボランティアを募るのだけど、しかしそのスタイルが実に素晴らしかった。「みんなもゴミを拾って!」とは、一言も言わないのだ。ただ、自分が今までゴミを拾い続けてきたこと、そのときに口ずさんだ歌があること、その歌の演奏会をしたいのだけど一緒に歌ってくれる人を募集しているということ、それだけ。決して、「だからみんなもゴミを拾おう」なんてことは口にしない。何も求めない。求めず、何かを行なうという道。

「学校の校庭を百周走り続けたら、一周ぐらい一緒に走ってくれる人が出てくるかも知れない。でも、そのためには実際に百周走らないといけない」

この言葉が耳に残った。——「ゴミを拾ってきれいにしましょう」という言葉は、正しい言葉だ。みんなもそう思っているし、おそらく同じように考える人のほとんどはあちこちでそうやって訴えていることと思う。だが、「みんな、拾って!」といわれて、「じゃあ、拾おう」と思うのではダメなのだ。そういうことではないだろうか。——誰かが拾っている。それを見ている。毎日毎日、ただ拾い続けている。毎日毎日、ただそれを人々が見ている。ただ、見ている。そしていつの日か、誰に何を言われたわけでもなく、それを見ている人の中から拾い始める人が出てくる。・・そういうスタイルを彼女は求めたのだろうと思う。

誰かに対し、何かを求める。求めに応じ人々が集まり、何かが成し遂げられる。それは、ごく普通の考えだ。だが、誰に対しても何も求めない。何も求めず、何かを成し遂げる。これは難しい。だが、おそらくはもっとも時間がかかり、もっとも迂遠だが、これこそが王道ではないか。

ボランティア運動や平和運動、各種の宗教的活動や政治活動、さまざまな活動の多くが結局は何かを成し遂げることなく終わってしまう、失敗に終わる、その大きな理由は「人に多くを求めすぎる」ことにあるような気がする。「○○しましょう」から、「○○して欲しい」へ、そして「なぜ、○○しないんだ?」「○○しなければいけない」「○○しろ」へと、多くの活動が進むにつれ、それを推進する人は人々に次第に多くのものを求めるようになってしまう。求めるものが一見すると正しいものである場合には、特に。そしていつの日か、人々は離反し活動は衰退する。

自分がこうしたいからするんだ。——すべての活動の原点はそれだ。それだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。もちろん、自分一人だけではできることなんてほとんどないだろう。一生を費やしてもそれは徒労に終わるかも知れない。世界は何一つ変わらないかも知れない。徒労に終わることが怖いから、人は仲間を求め、そして何もできないことが怖いから、力を求める。だが、人に何かを求めて集めたところに、本当の力は生まれないのかも知れない。仲間と力に頼ったところに本当の活動は生まれないのかも知れない。徒労に終わる覚悟を決め、誰に何を求めるでもなく、ただ一人で何かを行ない続ける。そんな中で、もし一緒に横を走る人間が現れたとしたら、それが本当の力になり、仲間となるんじゃないか。

例えば、戦争。平和。右傾化。今の日本を眺めても、不安なことばかりだ。なんとかして世の中のあり方を変えていきたい、そう思う人は多い。——だが僕は、例えばデモをして行進したりする形での活動というのがどうも好きになれない。もちろん、それを否定するつもりはない。そういう道も確かにある。だが、そうした中で「なぜ、あなたはデモに参加しないんだ?」と声高に問う人の姿を見ると、そうした活動への意識が急速に萎えてしまうのだ。人は、正しいと信ずることについては簡単に盲目になる。その姿が僕には時に不快に映る。あなたはそれが正しいと思って行動しているのだろう、だがそれを誰かに押し付けることだけはやめて欲しい、と。その正しさは、僕にとっての正しさとは異なるかも知れないということに、どうか気づいて欲しい、と。

他人に何一つ求めず、自分が何をできるか。そのことだけを考えて活動する。それが本当にあるべき姿ではないかと思う。——僕は、無力だ。毎日ゴミを拾い続けるような根気もないし、街角で声高に叫んだりシュプレヒコールをあげる勇気もない。僕にできるのは、せいぜい「文章」という形で人々の目に触れるところに思うことを掲げる、それだけだ。「知る」ことなしに行動は始まらない。だから、声を上げる。ホームページにメッセージを掲げたり、こんな駄文を書いたりするのも、おそらくはそうした思いからなのだろう。

「こう思う」と公の場所に掲げるということ。それは、はっきりいってたいしたことではない。大きな努力も不要だし、誰だってできることだ。だから、ほとんど無力といえば無力だ。だが、それしか自分にできない以上、またそれぐらいは自分にできるとわかっている以上、それを放棄することはしたくない。また、今だから「誰にでもできること」だけれど、時代が変化したときには「意見を述べる」ことすら大いなる勇気を必要とすることだってあるだろう。僕の書いた駄文により逮捕される時代だってあるだろう。そうなっても意見を述べ続けることができるか、それほどの勇気が僕にあるとは思えない。けれど、自分でできる限りは行ない続けたい。

ただし、公の場所に意見を掲げるというとき、常に意識しておきたいことがある。それは、「自分は正しくなんてないかも知れない」と思い続ける、ということだ。自分は正しいと無条件に思い込んだとき、人は間違えるのだと思う。僕自身、「○○すべきだ」とか「○○しなければいけない」などと他人に強要するような物言いをすることがある。それはもう、限りなくたくさんある。それは常に、「自分は正しい」と思い込んだ瞬間に起こる。そう思う。だからこそ、僕は自分自身の「正しさ」に常に懐疑的でありたい。なかなかにそれは難しいけれど。

僕は、決して仲間を募り行動することを否定するわけじゃない。そういう方法もあるだろう。だが、その道をとらない人もいる。どうか「みんなと同じ道を選ばない」からといって否定することはしないで欲しい。僕は、一人で、ゆっくりと、休みながら、校庭を百周する。たった一人で。一緒に走ろうという人が、結局は誰一人現れなかったとしても。それでいい。そう思えるようにありたい。

公開日: 月 - 5月 31, 2004 at 11:48 午前        


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