過去を消したい


・・最近、そんな人たちが目につく。自分や自分たちの過去に自信を持たないのはなぜだろう。それは多分、現在の自分に自信が持てないからじゃないだろうか。

もう昨日になるけど、ちょっと気になるニュースがあった。国会議員の超党派で作られているある団体が、日露戦争百周年を記念して明治神宮に参拝したというニュース。それ自体は、まあよくある靖国神社参拝なんかの類似ニュースといった感じだけど、そこで議員の人がいっていた言葉が目を引いた。「司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いていたように、日露戦争はその後の太平洋戦争などとは違うものだ」という言。

ああ、ここにも司馬遼太郎で歴史を学んだと錯覚した人間が・・しかも国会議員という一国の方向を決める人間たちの中に、こんなにもたくさん・・。まあ、司馬遼太郎については前に書いたからここでは脇に置こう。彼らに感じたのは、「日露戦争だけは正当化することができる。これは太平洋戦争なんかと違って国民みんなが受け入れやすい見方だ。ここを入り口にすれば、日本の歴史観をうまい具合に自分たちの都合のいい方にもっていけるぞ」といった思いだ。——いや、お前の思い込みだろ、といわれればそれまでなんだけどね。だけど、どうも「坂の上の雲」の秋山兄弟の活躍のおかげで、日露戦争については肯定的な人間が多いことは確かだ。

世の中に「正しく立派な戦争」なんてものがあると思えること自体、僕には受け入れがたい。孫子だったかクラウゼヴィッツだったか忘れたけど、「戦争は、外交のもっとも下等な手段である」とかいうようなことをいっていた。「戦わずして勝つ」というのは、すなわち「戦いになった時点で、既に全員負けである」「戦争になった時点で、既に全員間違えている」ということなんだ。だけど、どうしてもそういう考え方が納得できない人もいる。「いや、自分たちだけは別だ」と思いたい人は常にいる。

ま、政治的な話はこの辺でやめておく。そういうことがいいたかったわけじゃない。僕がいいたいのは、「みんな、自分たちの過去をきれいなものに変えたいんだな」ということ。過去の非を「実は正しかったんだ」と解釈したり、過去の発言を「実はこういう意見だったんだ」と微妙にすり替えたり。それらはみんな、「失敗した過去を塗り替えたい」ということじゃないか?

なぜ、かつての自分や自分たちの言動を手直ししたいと思うのか。それは、「そうしないと、現在の自分や自分たちに自信が持てないから」じゃないだろうか。——恥ずべき過去を持っていると、人はそれをなんとかして自分の中で正当化し薄めようとする。それは多分、ある種の本能みたいなものじゃないかと思う。人間は、記憶を作り替える能力を持っている。証拠をねつ造するとかそういうことでなくて、自分自身の記憶を(自分自身でもそれとは気づかないうちに)自分に都合のいいように変えてしまうことができるんだ。個人でも、おそらくは集団でも。そうすることで、今の自分が生きやすい環境を作っていくんだね。それはすなわち、「こういう過去があると今の自分は生きにくい」と感じているということなんだろう。

「過去にいいこともしたし、悪いこともした。それらすべての結果として現在の自分がある」と思えたなら、おそらく過去を修正したいと強烈に思うこともないだろう。いいことだけでなく、悪いことも含めて自分を形作る何らかの力になった、と思えることが。——ただしそこで「だから、過去の悪いことは、自分にとってはいいことなんだ」とすり替えてはならない。人間は、常に「自己の正当化」という欲求をどこかで抱えているもんだ。そして隙あらば、そいつが考えの中にすり込んでくる。体力が落ちたときに風邪のウイルスが入り込んでくるみたいに。

声高に自分や自分たちの過去について叫ぶ。それは正当化であれ自虐化であれ、どこかしら「過去の改竄」の匂いがする。——過去に大きな罪を犯し、それを隠さず公にして生きる人というのは、もっと自分の過去に対して淡々としているものだ。全てを受け入れる覚悟のある人は淡々としている。声高に叫ぶのは、受け入れることを怖がっている人間だけだ。自分や自分たちの過去について考えるとき、そのことを頭のどこか隅っこにでも入れておこう。・・僕も、つい「声高に叫ぶ」ことをやってしまいがちだから。

公開日: 水 - 2月 11, 2004 at 11:17 午前        


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