結果と過程
完成品が欲しい人間と、完成させる「手前」までが欲しい人間っていうのは、何にでもあるもんだね。
ようやく、庭にまいた草花の種から、小さな芽がちょっとずつ出てき始めた。貧相だった草花も少しずつ芽を吹き始めた。といっても、まだまだ緑よりは土色の方が圧倒的に多い我が家の庭。それなりに見られるようになるのは来年だろうか。
嫁は昨年辺りから「縫い縫い病」を患っていて(布を触っていないと禁断症状が出るという恐ろしい病気)、日々、同じ病の人々のホームページを訪問して回っては心を癒している。で、割とおしゃれに暮らしている人たちのホームページなどでは、やっぱりガーデニングのコーナーというのをもうけているところが多いらしい。ときどき、すてきな庭を見つけては「ほらほら、これすてき!」といってくる。中にはずいぶんと凝った庭を自分たちで作っているところもけっこうある。
が。先日、「うちの庭はまだまだ貧相だねえ」とかいう話をしていたとき、嫁がこういっていた。「けっこう、ホームページとかで『すてき!』っていうところはあるんだけど、最初っからきれいに作っちゃって、後はだんだん花も散ったりしてしょぼくなっていって更新しなくなっておしまい、ってところが多いのよねぇ」と。要するに、最初は張り切ってきれいな花々の咲き乱れる、しっかりと成長した見栄えのいいものをどんどん買ってきては植えて、すばらいし庭ができるんだけど、草花ってのは放っておけば花も散ってしまうわけで、次第にしょぼしょぼなものになってくる。そうするとだんだん庭から興味も薄れていってホームページの更新も止まり、いつの間にか「そのへんの庭」になってしまう、ということらしい。
「最初から完成したのを作っちゃうから、育てていこうって思わないんだろうね」(嫁)——これは、何事にもいえることだよね。確かに我が家の庭は、しょぼい。現在、「まあ、すてき!」という緑と花を構成しているのはヴィオラとにおいすみれなどをまとめた一角だけで、後は「ぽつり、ぽつり」と小さな草木がまばらに植えてある状態だ。だけど、これは「スタート時」の状態であって、「ゴール」の状態ではない。これから少しずつ時間をかけて育っていくんだ。
だけど、そういうのができない人もいる。「すてきな庭が欲しい!」というとき、「すてきな庭の完成品」を買ってくる、ということになってしまう。まぁ、うちも土台部分は造園業者に作ってもらって、いわば「買ってきた」わけだけど、やっぱり草花は自分たちで育てたい。育ててこその「我が家の庭」だろうしね。でも、今すぐ完成された状態が欲しいという人もいて、そうした人間は既に大きく育って見頃になったものをポンポンと植える。それらは今が見頃なわけだから時間が経てば花も散り「見頃を過ぎた状態」となる。となると「もういいや」となってしまうんだろうか。
もちろん、世の中には「結果」を楽しむものというのもある。例えば、映画とか小説とかは、プロが作った「結果」を楽しむのが普通で、これを「自分で映画をとらないと面白くない」とかいう人はごく少数だ(もちろん、いることはいるけど)。けれど、反対に「過程」を楽しむものってのもある。そういうもので「結果」だけをほしがって手に入れても、そりゃ楽しみも半減してしまうだろう。例えば、プラモデルなんかで、完成したのを売ってたりするけど、それを買ってきて飾って得られる楽しみってのは、自分で一から作って完成させる楽しみとは比較にならないほどショボイものじゃないだろうか。
別に、だからといって「何でもかんでも過程を重視すべし」というわけじゃないよ。ただ、今はどちらかというと「何でもかんでも結果を重視する」ような時代のように思うのだ。趣味のようなものに限らず、仕事でも生活でも生き方でもね。そういうとき、「自分は、なぜ結果だけをほしがっているのだろう?」「過程を楽しむ道というのはないのだろうか?」ということを、常に頭のどこかに入れておくというのは、きっと悪くない。ひょっとしたら、新しい道が見えてくるかも知れない。そう思わない?
公開日: 金 - 3月 19, 2004 at 03:37 午後