「わかりやすい」ということ


「わかりやすい」ということは、実は2つの種類がある、ということを考えたことがある?

ヴィトゲンシュタインの「論考」が文庫になってる、というのを知ったのは何日か前だった。で、昨日、出かけたついでに探してみたのだけど、このへんの小さな本屋では岩波文庫を扱っていない。やむなく帰ってきた。ま、すぐに欲しいってものではないので、そのうち気が向いたら買うことにしよう。

ところで、この論考の書評というか訳者へのインタビューが新聞に出ていたのだけど、そこでこう書かれていたのだね。——わかりやすくする、ということを考えて翻訳したけれど、我々が「わかりやすい」という場合、大きく分けて2つの意味がある。それは「平易である」ということと、「明快である」ということだ。哲学は元来、難解なもの。それを平易に説明することはしたくない。明快に説明することを考えたい。・・というようなこと。

思わず、手を打ってしまいそうになりましたね。そう、そうなんだよ。前に「わかりやすい字幕」のときにいいたかったことって、こういうことだったんだよな。物事を「わかりやすく」するというとき、「平易にする」ことが重要な場合と、「明快にする」ことが重要な場合がある。その違いを、僕らはほとんど意識しないけれど、これは実は重要なことなんだ。

非常に面白いことに、普通の人が一般的に「わかりやすい」というとき、その9割までは「平易である」ことをいっている。噛み砕いて説明するというか、やさしい概念に置き換えて伝えることを「わかりやすい」と考える。だがしかし、これは常に「本来の意とは違うものが伝えられている」という危険と隣り合わせなのだ。そのことを僕らは割とさっぱり忘れてしまっている。

僕の仕事も、難しいものを「わかりやすくする」仕事だ。ややこしいプログラミングなどの話を、専門知識がなくともわかるようにする。——で、改めて考えてみると、僕の書く「わかりやすさ」というのは、どちらかというと「平易である」ことを目指しているようなのだ。本来の明確な概念とは若干ずれたりしても、より平易で受け入れやすい概念があれば「だいたい、こうですよ」とそちらを使って説明するわけ。

なぜ、「明快」よりも「平易」をとるのか。それは、「明快にすることでわかりやすくする」というのは、たいていの場合、至難の業だからだ。人間の思考の幅というのは人によってまちまち。誰にとっても「論理的に明快に理解できる」という説明を行なうのは、相当に困難な作業なのだ。中には「いや、ボクはそうやってますよ」という書き手もいるけれど、その著作の多くは「自分と、自分と同程度にオリコウな人間たちにとっては明快だが、それ以下の人間には皆目理解できない」程度の明快さでしかなかったりする。たいていの場合、「誰にとっても明快である」というのは、書いている本人の想像する以上に難しい。ただし、このやり方は、本来の難解な概念を変質させてしまったり劣化させてしまうことなく伝え理解させることができる。

要するに、自分は「明快にする」ことが困難で自分の手に余るために、次善の策として「平易にする」方法をとっているのである——そのことを、頭の片隅に入れておこう。まるで自分のしていることが「完璧なもの」であるかのように錯覚しないために。

公開日: 水 - 3月 3, 2004 at 02:38 午後        


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