パニックを起こせ
わけがわからないほどに混乱したら、誰だって冷静ではいられない・・はずなのに。
何か違和感のあるニュースが報道されていた。——仙台市で小学5年生の女の子が行方不明になっているのだという。それはいいのだけど(いや、よくないけど)、その母親が、ブログで情報提供を呼びかけている、というのだね。それで、コメンテーターの木村太郎おじさんが「ブログは新しい情報のなんたらかんたらを蜂の頭です」とか何やら得意げにブログの解説をしていたりしたのだけど。
これを見て、僕も嫁も何ともしっくりこない感じがしたのだった。それは、「子供が行方不明になったのに、ブログなのか」ということ。・・いや、もちろん「どんな形でもいいから何か情報が欲しい」ということでいろいろと考えた、その一つなんだということはよくわかる。だけど、何か違うのだ。
子供は、親にとっては「躰の一部分」のようなものなのだよね。そりゃ、高校生ぐらいになってくれば一個の人格として自分から離れてくるだろう、だけど小学生といえばまだ子供だ。まだ親の躰の一部じゃないか。それが突然、いなくなる。自分の子供が同じ状況になったらと想像してみる。——あるとき突然、自分の右手が切り落とされたら、あなたはどうしますか? 「ブログで亡くなった右手の情報を集めてみよう」とか思うだろうか。僕ならどうだろう。多分、ただひたすら泣き叫び続けると思う。それ以外のことなど、痛みで何も考えられなくなるだろう。
最近のニュースなどでよく感じるのだけど、自分にとってもっとも大切な人を失ったりしたのに、妙に冷静沈着な人が多いような気がするのは気のせいなんだろうか。もちろん、その人なりに心の中では酷く苦しんでいるのだろう。だけど、とても苦しいはずなのに、妙にちゃんとしているのだ。普通にインタビューに受け答えし、とても心を打つ感動的な手紙なんぞを読み上げ、必要な場所ではちゃんと涙する。そしてそれが終わると怒りに燃えて責任者を糾弾したりする。そういう姿を見る度に、僕や嫁はなんともいえない違和感、居心地の悪さを感じる。
とてもしっかりしている。とても冷静に正しく対処している。それが、イヤだ。——だいぶ前に、こういう話を何かの本で読んだ記憶がある。ある人が、自分にとってかけがえのない人物が危篤だと連絡を受ける。彼はすぐ目の前の駅にちょうど止まっていた特急電車に飛び乗る。が、次の駅で「この列車は遅い!」と叫ぶと列車を飛び降り、タクシーに飛び乗る。ところがしばらく走っていると今度は「この車は遅い!」と叫び、タクシーを飛び降りて自分で走り出すのだ。・・この男は、完全に間違えている。この男の考えは、全くおかしい。だが、おそらく世界中で一番愛する人を失いかけている人間とは、こういうものなのではないか。
この男の行動はまったくおかしいのだけど、彼の心情はものすごく僕の心情にぴったりとくるのだ。そういえば、だいぶ前になるけど、たまたま自宅に戻っていたときに、父親が少し離れたところで倒れて救急車で運ばれたことがある。たまたま近くにいてうちに電話してくれた人がいて、それを受けて僕は飛び出していった。ところが、僕は、その人が教えてくれた場所を全く知らないのだった。——僕は、どこに向かうつもりだったのだろう。僕は対処を完全に間違えていた。ただ、そのとき僕は「ただ走る」ことしか思い浮かばなかったのだ。
パニックになれば、人間なんてそんなものではないだろうか。そして——今の世の中には、大切な人を失ってもパニックにならない人が増えているような気がするのだ。なんてクールな世の中なのだろう。クール過ぎて僕には住みにくい。
公開日: 金 - 3月 25, 2005 at 07:16 午後