超少子化ですか


子供を持たない夫婦が増えて来たそうだ。それはそれで一つの考えかも、と思う反面、釈然としないものも残ったりする。

新聞に「超少子化時代」として、子供を持たない夫婦のことが記事として載っていた。お互いに仕事を持っている。やりがいもある。子供が産まれたら、どちらかは仕事を犠牲にしないといけないかも知れない。経済的にも今のような暮らしはできなくなるだろう。ならば、子供を作らないという選択をしてもいいのではないか。そういう考え。——これは、よくわかる。子供を持つってのは、本当に大変だ。特に2人して仕事を持っていたら、今の日本じゃとても作る気にはなれないだろう。

僕も、独身時代はそういう考え方だった。結婚するなら、お互いに仕事をもっていて、お互いに応援し合っていけるような関係がいい。そうしてお互いの人生を尊重して暮らしていけるなら、子供はいなくてもいい。そういう考え方。——ただ、実際に子供ができてしまうと、考え方も見方もずいぶんと変わってくることがわかる。子供を作らず、お互いの人生を尊重して暮らしていく。それは一つの考えだが、しかしあえていえば「独りよがり」な面が強かったように思う。

子供は、親のものだ。そう思っていた。独身時代、子供というのは親が「持つか、持たないか決めるもの」という感じだった。だが、実際に子供が生まれてみて、その考え方は微妙に変わって来た。——子供は、社会のものである。もちろん、生まれてしばらくは子供は「親の子供」であり、親が何もかも面倒みなければいけない。親の所有物と錯覚するときもあるかも知れない。だが、二十数年もすれば、子供は必ず社会に帰ってゆくのである。いつまでも「親にとっての子供」ではいてくれないのである。子供は、社会から預かったようなものであり、いずれは返さなければいけないのだ。

もし、今の社会を将来にわたって維持していきたいのなら、将来を担う子供たちが育たなければいけない。そしてそれは、一人一人が育てるしか道はないのだ。税金を納めているんだから国が作って育てろ、とはいかないし、どこかで買ってくるわけにもいかない。

子供を産み育てるのは大変である。時間的物理的にも制約されるし、何より経済的にも苦しくなる。独身の頃と比べれば、やりたいことも我慢しなければいけないし、自由な時間もなくなる。生活も切り詰めないといけなくなる。特に女性の多くは、仕事を諦めるか、大幅に減らすかしないといけなくなることだろう。だから「子供は諦めよう」と思う人が多いことはよくわかる。子供は諦め、この社会を自分の代で終わりにしよう、後10年したらみんな一斉に自殺しておしまいにしよう、というなら理屈も通っている。だが、この後も社会を続けていくのならば、誰かが次の世代を支える子供たちを育てなければいけない。「ボクたちは、自分たちの好きなように楽しく暮らしていきたいから子供は作らない。でも君たちはこの先の社会を支えるために貧乏して苦労して子供を育ててね」というのは、理屈に合わないだろう。

そんなことはわかってる、でも現実問題として子供を持つのは難しいんだよ、という人も多いだろう。それは確かにそうなのだ。だから、少しでも子供を育てやすい環境、子供を持った家庭が少しでも優遇されるような制度は必要である。そうして、「子供を持つために生ずるさまざまな不利益」をなくしていかなければならないのは当然だ。うちだって、2人目は?といわれるとうーんと考え込んでしまう。ともかく、今の日本においてそうした環境整備が致命的なまでに遅れているのは確かだ。

ただね。そうしたこととは別に、健康で十分子供を作り育てる能力も経済力もありながら「作らない」という選択をするのは、子供をもち育てている人々に自分たちの将来を「おんぶにだっこ」しているのだ、ということも頭のどこかに入れておいて欲しいのだ。「その代り、たっぷり税金おさめてるじゃないか」というかも知れない。が、世の中というのは金だけですべて事足りるわけじゃない。「人間」がいなければどうしようもない部分だってある。

新聞記事で、子供を持たない夫婦の一人がこんなことをいっていた。「自分たちは、子供を持って育てている人たちに比べて、考え方が幼稚な気がする」と。要するに、自分たちの好きなことだけを我がままにやってるのは精神的に未成熟なんじゃないか、といいたいのだろう。幼稚であるとは思わないけれど、少なくとも子供を持っている方が、持たない人に比べて人間として奥行きのある人に成長するのは確かだと思う。なにしろ、こっちは「人間を一人、育てる」という大事業をやってるんだから。

公開日: 土 - 6月 26, 2004 at 01:48 午後        


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