無力な正論


・・をあえて述べることの意味を、誰か教えてくれないか。

・・実は、この話は少し前に思ったことなのだけど、どうしても引っかかっていたので書いておこうと思う。——今からちょっとばかり前になるけど、朝日新聞の読者からの投書欄で車の居眠り運転に関する投稿がいくつか掲載された。もともとは、最近の危険運転による事故を嘆く投書が発端だったと思う。

それに対し、元トラックの運転手という人から投書が寄せられた。・・彼は長年トラックの運転手をしていたが、無事故無違反を貫いた。彼の腕には、無数のやけどの痕がある。運転中に眠くて我慢できなくなってくると、タバコの火を自分の腕に押し付けて眠気を払った、その痕なのだという。その無数の腕のやけどの痕は、自分にとってプロとしての勲章なのだ。——そういった投書だった。

それから数日後、その投書に対する反論が掲載された。・・プロとしての勲章というが、それはほとんど居眠り運転の一歩手前ではないか。本当のプロであるならば、睡眠不足にならないよう健全な生活を心がけるべきだし、少しでも眠気を感じたら車を止めて仮眠するなりすべきだ。そうして安全な運転を心がけることこそがプロではないのか。——そういうものだった。

・・この、2通の投書を読んだときのなんともいえない悲しい気分を今も覚えている。元運転手の投書にやりきれないものを感じたのは確かだが、それ以上にやりきれなかったのはその反論の投書だった。——その人のいっていることは、多分、正しい。正論だし、誰も反論できない。だが、その正しい意見は、現実の前では無力であることがわかりきっているのだ。

「正しいことを行うことのできない現実」というのがある。僕らの暮らす社会は、正しいことを「正しいから」という理由で実行できないことの方が多いのだ。そして、明らかに正しくはない、誤りだとわかっている選択肢しか選ぶことができないこともある。多くの人は、そうした「誤りであるとわかっている選択」の中から必死になって最善のものを(時には最悪ではないものを)選び続けるしかないのだ。

例えば、規則違反であるとわかっていながら踏切を手動で開け続けた保安係。例えば、危険を承知の上で猛スピードで列車を走らせ続けたJRの運転士。それが、間違った選択であることは誰にだってわかる。もちろん、当の本人にさえ。わかっているけれど、しかし正しい選択肢は最初から用意されてはいないのだ。そんなときに、正しい主張をすることの、この虚しさをどうすればよいのだ?

車を止めて仮眠をとるべきだ。日頃から健康な日常生活を心がけるべきだ。それを、毎日15時間、車を転がし続けなければ生きていけない長距離トラックの運転手にいうのか? そうして彼を責めることの意味を、正論を主張する者はどう考えているのか。・・そして、なぜ、そんなことにさえ、正論を述べる者は気づかないのだろう。誰だって、正しいことを行うことができるなら、誰にいわれるまでもなくそれを選ぶのだ。それを選ぶことができないからこそ、こんなにも多くの人が苦しんでいるんじゃないのか?

正論は、悲しい。正しいけれど人々に支持されないが故に、ではない。たとえ人々に支持されたとしても、最初からその選択肢を取り外された中で生きている人間にとって、選べないことのわかっている正論を投げつけられることは、悲しい以外のなにものでもないではないか。そして——多くの正論を投げかける者は、正しいとわかっていながらそれを選べない人間がいることを理解しない。それもまた、悲しい以外のなにものでもないことだ。

この両者の間に一体どんな橋を架けることができるのか。誰か、答えを教えてほしい。もし、それがあるものならば。残念なことに、僕には未だそれを見つけることができないのだ。

公開日: 木 - 6月 9, 2005 at 07:00 午後        


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