いつでもできる、どこでもできる
・・その便利さが、作業レベルを低下させることになる。と思うことない?
「iBlog」を起動すると「新バージョンが出てます」というお知らせメッセージが現れた。iBlogというのは、このブログを書くのに使っているMac
OS
Xのブログ作成ツールで、早速ダウンロードしてみると、またもやメニューなどに新たな項目が追加されていた。別に今のバージョンで不便はないんだけど、新しくしないと起動する度に「新しいのが出たよ、出たよ」といってくるので煩くてかなわない。
インターネットが普及して、ソフトのバージョンアップなどをオンラインで自動的に連絡し更新してくれるようなソフトがずいぶんと増えた。それはそれで便利なんだけど、バージョンアップする度に微妙に操作が変わっていたり用語やメニュー名が変わっていたりすることが多い。その度に、新たに覚え直さないといけない。これが微妙に面倒だ。——この「しょっちゅうバージョンアップ」の影響で、最近はソフトの解説本を書くのが大変になってきている。先日もとある開発ツールとサーバソフトを使った書籍を書いたのだけど、書き終えて原稿を送り、本になるその間にソフトがバージョンアップして表示や操作が変わってしまっている。出版されたときにはもう古いバージョンの本になってしまうのだ。これはきつい。
もちろん、「いつでもどこでも最新のバージョンが使えるようになった」こと自体は喜ぶべきことだ。だが、そうなって以降、リリースされるソフトの質が低下しているように感じるのは僕だけだろうか。インターネットが普及する前、ソフトというのは大掛かりなバージョンアップなど1年に1度、いや場合によっては数年に1度だった。リリースした後で大きなバグが見つかったりすると大騒ぎになったものだ。一度リリースしたらそう簡単に回収や変更はできない。そのせいか、ウインドウやメニューの構成、使われる用語なども推敲して作られていることがよくわかった。おかげでバージョンアップをしても、基本的な表示や用語などは決して変わることがなく、新たに覚え直さなければいけないことも少なかった。
「いつでもできる」——この便利さが、作業に対する緊張を緩め質を低下させることがないだろうか。例えば、ケータイが普及し、いつでも連絡とれるのが当たり前になってから、約束の時間を守れない人間が増えてはいまいか。時間に遅れそうならメールでピッと送っておけばいい。これで遅刻しないで済むと思う。「連絡しただけであって、それは遅刻なのだ」という意識は飛んでしまい、「連絡したから遅刻じゃないもん」と考えてしまうようになる。
不便であるということは、簡単には間違えられないという思いにつながる。便利であり簡単に修正が利くということは、「失敗したら修正すればいい」という考えにつながってしまう。便利になることはいいことだ。だが、「不必要に便利になる」ことがよいことなのか。もちろん、「それでも便利な方がいい」という人もいるだろう。だが、少なくとも「不便なまま」という選択肢を選べる社会であって欲しい、と僕などは思うのだ。少なくとも、便利なサービスを強要し、それを活用しなければ暮らしてけない世の中であって欲しくはない。
・・先日、ブレッドメーカー(要するにパン作り機)が故障してしまい、現在、嫁はそれまで使っていた古いパンこね機(こねるだけで焼くのは自分でやらないといけない)で毎日パンを焼いている。「納得いかない!」とかいって、思うようにできなかったものを何度も作り直したりしている。次第にうまく作れるようになっていくのが楽しいらしく、次々と新しいパンに挑戦しており、僕と娘は恰好の試食係となって日夜ひたすらに食べ続けている(これがうまいんだなかなか)。——パン作りに関しては、不便になってちょっとだけよかった、かも知れない。パンを作っているときの嫁は、なかなかに幸せそうに見えるのだ。
公開日: 木 - 6月 3, 2004 at 04:15 午後